秋月城



標高  
比高  
場所 福岡県甘木市秋月
最寄り駅 甘木鉄道甘木駅よりバス



1203年,この地の豪族原田種雄が秋月氏を名乗り,この地に山城を建てた
秋月氏は17代続いたが,16代目秋月種実が有名

一五五七,秋月氏は大友宗麟に攻められ,落城,父種方が戦死したのをうけ,毛利元就を頼り山口へ逃れる
10年後,大友から城を奪回 2万の総攻撃にも,本陣奇襲をかけて和睦に持ち込む
一五七八,大友氏が耳川の戦いで島津軍に負けると,種実は龍造寺と手を結び,大友に反旗を翻す
一五八〇には大友勢1万を六千の兵で何度も撃退した
この頃,秋月氏は十一軍三十六万石をおさめていた
島津と盟約を結び,協力して城を落としたりしている

しかし, 一五八七年の秀吉の九州征伐では島津との盟約を重んじ抵抗,大敗
名器 を献上し,日向高鍋三万石に改易となる


その後は,黒田長政の叔父直之が入ったが,1国1城令に従い陣屋とした
そして,以後,長政の三男長興が五万石で入り,秋月藩という支藩になる





城の構造
武家屋敷が郷土資料館として残されている
並木道が"杉の馬場"
垂裕神社,奥御殿跡,秋月中学校校庭と城内は3段の平地で出来ている
垂裕神社の黒門は本来,瓦坂のところにあり,大手門だったが,今の位置に移築された

全体に小京都といわれるくらい,建物と紅葉,堀の風景がきれいである



 
長屋門


瓦坂



下 武家屋敷

   写真のは旧戸波家



垂裕神社の黒門






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