品川台場




嘉永六年(一八五三) 東インド艦隊司令長官ペリーが、浦賀に来航
アメリカ第13代大統領フィルモアの親書を幕府に手渡し、開国を要求した
この事件を機に、江戸幕府は海防強化の必要性を痛感
以前より海防について上申していた江川太郎左衛門を海防の庁議に参席させ、三浦半島と房総半島の海岸一帯調査させた
江川太郎左衛門は 観音崎と富津に台場を建設する、品川沖の内海に台場を建設するの2点についての復命書を提出した
しかし当時の江戸幕府は、江戸城西の丸の焼失や、第12代将軍の徳川家慶の逝去など、財政的に非常に苦しい状況だったため品川沖の内海に台場を建設する案を選択した
当初の品川台場の建築案は、南品川の漁師町から東北の深川洲崎にかけて、連珠のように並べる計画で、列は2列とし、海上に11基、漁師町の海岸に1基の合計12基を築造するというものであった
翌年、ペリーが再度浦和に来航し、ついに日米和親条約の締結となった
その間に幕府は台場の建設を進め、四月には第一,三台場を、十二月には第五、六台場が建設され、第四・七台場は途中で建設中止、残りの台場については未着手のまま計画中止となった


海上公園なび お台場海浜公園&台場公園に詳しい

城の構造

現在第三台場と第六台場が残っており、第三台場を国指定史跡に指定公園として復元、解放している
第六台場には渡ることはできない
四角形の土地に土手で囲まれており、中央には兵舎の礎石、土手には砲台跡と、弾薬庫跡が残っている






第三台場はレインボーブリッジの真下にあります



徒歩で第三台場にわたれます
第三台場の全景
弾薬庫跡 中は埋まってしまっています
陣屋跡 現在は礎石だけです
砲台跡 土台だけが残っています




標高
比高
場所 東京都港区台場1−10

最寄り駅 ゆりかもめ お台場海浜公園駅