福知山城



塩見頼勝が最初に築いた. このころは横山城といった.
その後, 山陰攻めの光秀に攻められ, 光秀のものになった.
ちなみに光秀の山陰攻めの主な敵は次の通り.

光秀山陰攻略
波多野秀治(ひではる) 八上城
(やかみ)
信長公記 巻十一〜
赤井悪右衛門直正
(浅井三人衆の一人)
黒井城 信長公記 〜巻十二
荒木村重 有岡城 信長公記 巻十一〜巻十二

その後, 光秀自身は丹波亀山城(亀岡市)に入り, 甥の明智秀満(ひでみつ 俗名を左馬介光春)が城代として福知山城に入る.
(城代は城主の次の役職で, 実地の最高職. 城主は中央にいて城には居ない)

その後, 本能寺
光秀は安土城の信長, 二条城の信忠などを討ったあと, 山崎の戦いを迎える.
細川などが味方に付いてくれないため, 負け, 坂本に敗走中に落ち武者狩りにあって, 死.
その時の坂本城の留守居役が秀満. 秀吉に攻められて自害.
みんな坂本に向かうのは福知山より守りに強いため?

その後, 福知山城は豊臣家のものとなり, 杉原家次, 小野木重勝と変わる.
小野木は, 関ケ原で田辺城主 細川藤孝に戦いを挑み, 朝廷の和解を受け入れさされ藤孝に仕返しされ, 切腹したかわいそうな人.
細川藤孝は武勲だけでなく, 和歌の才もあり, 古今集の断絶を危ぶんだ朝廷から和解令が出された.
芸が身を助けた, 類まれなる例.

その後, 有馬豊氏, 岡部長盛, 稲葉紀通, 松平忠房と代わり, 最終的に朽木伊予守稙昌(たねまさ)から朽木家として明治まで続く.

光秀の丹後統治
明智日向守光秀 丹波亀山城
明智左馬介光春 福知山城
斎藤利三 黒井城
細川藤孝 田辺城(丹後)
細川忠興 宮津城(丹後)




城の構造
東に由良川, 北西南が断崖というが, 平山城である.
石垣は野良積みであり, 転用石(寺の五輪塔などを石垣に使うこと) が目立つ. これほど多いのは, 大和郡山城と福知山城のみとか.

明治に, 石垣に至るまで全て破壊されたが, 昭和60年代に現在の天守が復元された.
東工大の有名な先生が設計したので, 現物に近いそうな.

本丸,二の丸, 三の丸があり, 本丸と二の丸の間には 空堀 があったらしい
現在, 本丸と城址公園とからなっているが, 城址公園の橋の下にある川がその空堀.
また稲葉時代には 橋 がかかっていたとあり, 城址公園の 昇龍橋 はそれを復元したもの

唯一の現存している建物は, 銅門番所. もと銅門の続櫓だったのだが, 今の場所に移築した.

豊磐の井(とよいわのい)という井戸が残っている. 籠城用の井戸では日本一深く, 50mを越える.

また, 本丸には朝暉神社(あさひ)という祭壇コーナーみたいなのがあり, 藩祖朽木稙綱が祀ってある.


さすがに明治に消え去っただけあって, 復元以外の城跡というものが少ない.
しかも周りも近代化しすぎて遠方から本丸を写そうとすると余計なものが写ってしまう.
あと,明覚寺の山門は福知山城の移築門です.




標高  
比高  
場所 京都府福知山市内記
最寄り駅 JR福知山線福知山駅




左上
右上 石垣の転用石
左下 昇竜橋

左上: 銅門番所
    唯一現存している建物
右上
左下 豊磐の井
    籠城用の井戸では日本一深く,
    50mを越える
右下 朝暉神社(あさひ)
    祭神は藩祖の朽木稙綱

左 転用石
右 昇竜橋
    稲葉時代に本当にあった
    ものらしい