浜松城 >徳川家


浜松は古くは平安時代より栗原宿と、天竜川の渡し場として交通の要衝の地であった
徳川家康は、元亀元年(一五七〇)、三方原大地の南東、永正年間に築かれた引馬城の跡地に浜松城を築城した
徳川家康織田信長の盟友として、各地で転戦
信長包囲網の中、武田信玄の大群の猛攻に突撃し、大敗したのもこの地
天正十四年(一五八六)駿府城に居城を移転
天正十八年(一五九〇)、小牧長久手の戦後交渉で徳川家康は関東に移封となった
その後、浜松城には秀康の重臣堀尾吉晴が入封するものの関ヶ原後松江に左遷される
徳川政権となってからは、徳川譜代の家臣が次々と入れ替わる
家康がこの城から天下を取ったことから、出世城とよばれ、浜松城を経た者は幕閣の要職に就く者が多かった

三方原の戦い
信長包囲網の中、武田信玄は天下取りに向けて西上作戦を始める
武田は部隊を3つに分け、三河(山形昌景:徳川家浜松城)、美濃(秋山信友:織田家岩室城)、遠江(武田信玄)の各方面を破竹の勢いで攻略していく
武田信玄率いる本隊は掛川城浜松城の中継として重要な二俣城を落とすと、家康の本拠地浜松城に迫る
数の上で圧倒的に不利な徳川軍は籠城する計画であったが、武田軍は突如向きを変え、そのまま浜松を素通りしていこうとする様子
信長からは援軍という名の見張り目的で佐久間信盛林秀貞(道勝)滝川一益平手汎秀(信長の守役で、うつけを戒めるために自害したとされる平手政秀の子)、水野○などわずか三千のみ
これを見た徳川家康は、寡勢なれどこのまま敵が素通りしていくのを見過ごすわけにはいかないと家臣の反対を押し切り城を出て、野戦を挑んだ
しかし、これが武田信玄一流の罠で、家康をおびき出し城攻めにかかる負担を減らそうという魂胆であった
二万五千(二万七千?)の武田軍にわずか一万一千の家康群は鶴翼の陣で突撃
魚鱗の陣をしいた武田軍に大敗した
(本来鶴翼の陣は大軍で敵を取り囲む陣形、魚鱗の陣は数で劣るが突撃する際に有利とされる)
家康も単騎で命からがら逃げ帰るほどで、その途中馬上で恐怖のあまり脱糞した
(この体験は、伊賀越えと並び、生涯最大の危機として二度と忘れないよう自訓とした
) 命からがら逃げ帰った家康は浜松城の門戸を開け放ち、篝火を威勢よく炊いて空城の計をはかった
そして、家康はこの姿を絵師に書かせ(しかみ像)、湯漬けをかっ食らうといびきをかいて寝だしたという
これをみた追撃軍の将山形昌景は何か策があると思ったのか、追い打ちをあきらめたという
その後武田信玄は病に倒れ、以後武田軍は甲斐まで退却していった

城の構造
本丸の北西に天守曲輪があり、不等辺四角形の巨大な天守台があった
江戸時代を通じ、一度も天守は建てられなかった
現在の天守は昭和三三年に建てられたもの

天守丸以外はほとんど市街地化しており、当時の区画は完全に消えてしまっている
しかし、天守門を始め、城の構造を徐々に復元する計画が進行中である


三方原古戦場跡は現在の三方原霊園(浜松駅より遠鉄バス43〜45版系統)


堀江城:浜松市西区舘山寺町




iphoneアプリ「家康の散歩道ウォーク」




 
二の丸 およそ一五〇〇坪もの広さがあった
藩主の居館と表御殿、裏御殿があり、藩政の中心であった
本丸


天守門跡 現在復元工事中です


東照宮 明治になり旧幕臣によって建てられた
御祭~は徳川家康
東照宮の片隅にたつ曳馬城趾碑
この地に浜松城の前身、引馬城があった


家康の身代わりとなって討ち死に:夏目吉信、本多守忠 わずかな報復:犀ヶ崖


浜松城公式HP





標高
比高
場所 静岡県浜松市中区元城町
最寄り駅 JR東海道本線/新幹線 浜松駅



    
↓その他本日おすすめの城

  
城一覧へ 国別検索へ 本陣(TOP)へ