伊賀上野城/名張藤堂邸


伊賀国は甲賀, 雑賀(さいが)などのように, 国人同士が林立し, 1つの有力豪族が生まれない地域であった.
(信長などにしてみたら, 1番やりにくい地域. 豪族がいれば, その子息を登用とする形で家臣化出来る. 前田村の利家などがその例)
土豪としては北伊賀の服部氏, 南伊賀の大江氏の一氏族 百地(ももじ)氏 (他には毛利氏なども大江氏の末裔)などがあげられる.
徳川家臣の 服部半蔵正成は, 父の代に三河に移ったため, 半蔵自身は伊賀流の忍びではない. だが, 配下に服部一門の伊賀者が多かったため, そう思われがちである.

豪族
有力豪族継承名
甲賀望月氏
北伊賀服部氏服部半蔵
南伊賀百地氏百地丹波
雑賀鈴木氏鈴木孫一


伊賀国では 伊賀惣国一揆といい, 早い話が代表者12人で多数決で何事も決定する制度がある. それで織田家に従属しないため, 伊勢信雄(信長の次男)が怒り, 天正伊賀の乱となる.
第一次(天正六年)は信雄が, 八千の兵を率い単独で攻め込み, 大きな損害を受けて敗退. 大名としての体裁もあり, なんとしても統治しなければならない.
信長に援軍を頼む. この時信長は勝手に兵を動かしたことで激怒する
第二次(天正九年)では信長, 信雄連合軍四万が, 筒井順慶らを率い, 二手に分かれて攻め込む. 多勢に無勢,豪族らを壊滅させた.
(織田信澄は信長とともに, 勝利した後で, 視察のために訪れただけ)
伊賀攻めの前に信長は甲賀攻めも考えていたが, 家康の取りなしで中止.

このころはまだ伊賀上野城はなかった.
天正十三年(秀吉の時代), 筒井定次(順慶の養子) が対豊臣の最前線として築城するが,すでに時は豊臣の天下
今後の城主も常に豊臣を意識して統治しなければならない.
定次は関ケ原で一時, 高槻城主 新庄氏 に奪われたことなどで, 没収, 鳥居忠政にわたる.

慶長十三年(一六〇八), 家康の信任厚い築城の名手 藤堂高虎 がこれまでの伊予国に伊勢の地を加増される.
高虎は伊賀上野城を修理し, とくに西側の石垣を高くし, 高さ十五間(30m) 南北一八六間の日本最大の石垣を建てた.
次に天守を建てるのだが, 完成間近の慶長一七年, 工事中に倒壊する事件が起こった.
豊臣方の破壊工作説, 家康の油断を誘う説などあるが, 詳細不明
その後,豊臣方が滅び, 一国一城令により, 着工できず天守のない城のまま, 藤堂家が所有し続ける.

明治に, 無用の長物として東西の大手門は破却された.

が, 昭和に議員により再建され, 観光城として, 再現された.


近くには, 伊賀流忍者博物館, 芭蕉の館,少しなどがある.
忍者博物館では, くの一が忍者屋敷のからくりを見せてくれ, 忍具, 忍術などが紹介されています.
おみやげの『煙の末』は伊賀忍者の歴史, 紹介などがあり, とてもいい本です. このページの大半はこの本に依っています.



左上 内堀跡 かなり深い(20mくらい?)
右上 内堀跡
左下
右下 筒井城天守があったらしい
筒井城跡のうんと奥の竹林の中にあった
給水塔の隣


筒井城跡
伊賀上野城の時代には城代屋敷になっていた
これの奥の左に天守があったらしい


左上 筒井城跡から上野城本丸へ続く階段
右上 筒井城跡から伊賀上野城天守を見る
左下 筒井城跡の石垣
この上が筒井城跡
高虎の高石垣に負けないくらい高い
右下 筒井城跡から上野城本丸へ続く階段

左上 本丸大天守小天守
西から見る
右上 大天守小天守
南から見る
左下 大天守小天守
南から見る
右下 黒漆塗唐冠形(なり)兜
藤堂玄蕃良重着用
良重(良次)は大阪夏の陣で木村重成勢に攻撃され討ち死にした

左上 その良次が名誉の討ち死にをたたえられ,高山様(高虎)からもらった感状
右上 森田浄雲所用の甲冑
左下 日本一の高石垣 30mあるとか
そのうち北向きの部分
右下

左 日本一の高石垣
西向きの部分
ていうか,長すぎて,木が邪魔で全貌が写せない!



近くには 百地(ももじ)砦跡(旧上野市友生 伊賀線桑町駅より), 服部氏館(旧上野市高畑 中瀬IC)などがある



名張藤堂邸について

藤堂高吉は丹羽長秀の三男
本能寺の変後,羽柴秀長の養子となる
藤堂高虎には子がなかったため,秀吉より高虎の養子とされ,元服
その後,藤堂高虎は朝鮮出兵,関ヶ原では家康側で戦い,着々と出世
慶長三年(一五九八)伊予半国二十万石今治城主となった後,伊賀,安濃津へ国替え
この間高吉は高虎について戦功をあげているが,つねに知行は高虎の内に含まれ,自身の領地は与えられなかった
高虎が没すると家督は実子の高次が継ぎ,高吉は家臣に降格となった
後,名張に移住し92歳で没
一〇八三畳という広大な屋敷だったが、名張大火の後,さらに明治維新により大半が破却され,今は奥住居の一部と桃山式枯山水の庭園が残るのみである
が,江戸時代の上級武家屋敷が残っているのは全国でも珍しい






忍びネットワーク
「賀のつく道」と言われるもの. 北は加賀から南は雑賀まで, 加賀, 甲賀, 伊賀, 雑賀 と忍びのみ知る道があり, 情報提供から, 軽荷物輸送, 逃亡までの極秘ルートである.
現在は無くなってしまった


標高
比高
場所 三重県伊賀市上野丸の内
mapionで見る
最寄り駅 近鉄伊賀線上野市駅


    
↓その他本日おすすめの城

  
城一覧へ 国別検索へ 本陣(TOP)へ