池田城



『信長公記』 巻一 信長御上洛十余日の内に, 五畿内隣国仰せ付けられ, 征夷将軍に備えらるるの事
より

(六角攻略した後)
廿八日 ・・・ 柴田日向, 蜂屋兵庫, 森三左(可成), 坂井右近(尚政) この四人に先陣仰せ付けられ, ・・・ 岩成主税頭(友通)立て籠もる青龍寺表に手遣わし
晦日 ・・・ 芥川に細川六郎殿,三好日向守(長逸 ながゆき)立て籠もる.
十月二日に池田の城,筑後(勝正)居城へ御取り掛け・・・



池田地方を支配した池田氏は室町前期くらいに台頭を始める

応仁の乱の時, 高国が管領になった時には高国に臣従するが, その後, 晴元側に寝返り, またもや晴元,三好長慶らに背き, 長慶に放火される.
その後は, 当主の切腹により長慶に再び臣従する.
(とにかく池田氏は三好長慶の家臣!)

その後, 三好長慶と三好政長(号宗三)とが不仲になり, 池田氏でも両派に別れた. そして政長派が負け, 長正が当主になり, その長子の池田筑後守勝正が跡を継ぐ.

その勝正の時に(永禄十一年 一五六八), 信長が義昭を奉じて上洛したが, 摂津の他の豪族はほとんど信長に下ったのに, 勝正のみ三好側につく.

三好三人衆
三好日向守長逸(ながゆき)
岩成主税頭友通
三好下野守政康

一ケ月ほど持ちこたえたが, 降伏. 信長も人質により許し, 摂津三守護にまでしている.

摂津三守護
芥川城 和田伊賀守惟政
池田城 池田筑後守勝正
伊丹城 伊丹氏(親興か忠親か?)


その後, 一族は勝正を追いだし, 直正をたてて阿波三好家に寝返る.
三好家が伊丹(伊丹氏)を攻めたとき, 勝正は伊丹側につき, 信長が伊丹氏を援軍したことにより, 淡路国衆が敗れ, 勝正は再び池田城主に返り咲いた.

しかし, 槇島(義昭と)で頭角を現した荒木村重が強大になり, 摂津一守護になる.
と同時に, 勝正は義昭の近習であることを理由に高野山に追放され, 残りの池田氏は村重の家臣となる.
そして, 村重が伊丹城に移ってしまう.


池田城がいつ頃廃城になったかは不明である. が, 信長は荒木村重攻略の際には自ら,ここに着陣し, 改築している
↓その時の改修点



城の構造 五月山の麓の高台の一角を選び, 東側に堀を引くことで城としている
城の外郭として, 北,南,東はそのままであるが,西側が住宅地化していて不明. 現在,北の門,西の門などを作っている 堀は最大幅25mという大きなもので空堀, ジグザグ状にして防御性を高めている.




平成になってから大規模な調査が行われ,城址公園が完成した. 現在城址公園となっていて, 主殿は望楼天守ふうに作られているが, 井戸,枯山水,虎口などは本当にあったらしく,復元されている.
何よりも,望楼と池との組み合わせが,キレイ.

春には桜がキレイです



左上
右上
左下
右下 最大幅25mという堀
結構深く左の橋の上から見てる

左上 枯山水(復元)
右上
左下 西の門
右下




池田市城山町
最寄り駅 : 阪急宝塚線池田駅