犬山城(白帝城) 織田家



斯波満植(織田広近?)が築いたのは 愛宕神社が本丸で,現在より南にあり,木下城といった
それより30年ほど後, 斯波氏の家臣織田郷広が現在の地に砦を築いた
その間に織田家により斯波氏は追放された

織田信清は最初妹婿であり従兄弟の織田信長と協力していたが,後に不和となり信長3000に破れ,追放される
信長は犬山城を柘植与一に与え,その後池田信輝(恒興とも,勝入齋)のものになる
信輝のもとに信長の末子信房を嫁がせる
天正9年信輝は摂津尼崎城に移る
天正10年の本能寺の変により, 信房も死亡  その後は信雄が入る
信長亡き後,秀吉は三男信孝を,家康は次男信雄を擁して小牧長久手の戦いが起こるが, 大垣城主の池田恒興,元助(之助とも 崩した字が読めないため)父子はともに中入り部隊として戦死
池田家の当主は恒興の次男池田輝政となる
小牧長久手は事実上秀吉の負けであったが, 秀吉側からの和議となり, いったんは信雄が犬山にはいるが, その後家康も信雄を見捨て, 犬山一帯は秀吉の養子関白秀次ものとなった
しかし, 秀吉に実子秀頼が生まれると, 秀次は疎まれて切腹させられる
その後入った石川備前の守貞清が入る
同時期に兼山城(金山, 烏峰城)というのもあったが,石川光吉(?)が空きとなったこの城を解体し犬山城に運んで犬山城を現在の美しい城にする(金山越え)
石川貞清は関ヶ原で西軍に属したため, 領地没収,小笠原吉次, 平岩親吉と変わる
家康の統治が固まり, 家康9男の徳川義直が尾張にはいると, 家老成瀬隼人正正成が犬山城主となる
(成瀬正成は家康の家臣で小牧長久手の初陣で敵将の首を討ち取る功績をあげ, 家康から兼光の脇差しをもらった)
(尾張が御三家のため, 一国一城令を免れた)
以後成瀬家9代が続き明治に至った
廃藩置県後の明治24年の濃尾大地震で半壊, 修理を条件に犬山城は成瀬家個人の所有となり, 現在に至る



犬山城の隣には,信長の弟織田有楽斎が建てた茶室,有楽苑がある
ちなみに後に江戸に土地をもらって屋敷を構えていたのが東京都の有楽町である


城の構造
本丸二の丸に山の下に三の丸がある梯郭式
天守は外観3階内部5階
下の入り母屋部と上の望楼部は作られた時期が違う(入り母屋部は石川?,望楼部は成瀬時代)城としても有名だ
現在流れる木曾川は明治の治水でかけられたものであり,三の丸は後に市街地となったが,戦災を免れたため, 江戸時代の旧藩士邸などが残り,本町通りなど趣のある町並みである
近くにある有楽園は織田有楽斉(茶人, 信長の弟, 利益 東京の有楽町もここから)が作った庭園
昭和27年に国宝指定
白帝城と呼ばれるのは 荻生そらいが李白の唄にある, 長江に立つ白帝城に似ていることから, こう呼んだことに始まる,





左 犬山城下の商店街






犬山神社
成瀬家歴代犬山城主と戊辰戦争から太平洋戦争までの戦没者を祀る神社




標高
比高
場所 愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2
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最寄り駅 名鉄犬山駅



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