柳生十兵衛三厳



  
柳生一族系図
柳生石舟斎(宗厳) ┯ 柳生厳勝      ━ 柳生兵庫助利厳 ━ 連也斎
             ┗ 柳生但馬守宗矩 ┯ 柳生十兵衛三巌
                           ┠ 柳生友矩
                           ┠ 柳生宗冬
                           ┗ 柳生烈堂義仙



柳生但馬守宗矩の長男. 石舟斎から数えて3代目. 江戸柳生2代目

13歳で徳川家光の小姓となり, 元和7年に宗矩が家光の剣術指南に, 元和9年には家光が将軍職に就任. 十代の十兵衛には明るい未来が待っているかに見えた.
しかし, 寛永3年, 十兵衛二十歳の時, 家光から遠ざけられた. 理由は不明. 本人も「あることで勘気をこうむった」としか残していない. 酒に酔った上の不届きか.

以後, 武芸の精進にひたすら勉めたとある.
その後,32才になって再出仕がかなうも, 書院番勤めという出世の望めない職となる.

しかし宗矩の死後, 家督を相続し, 八千三百石を領した.
著した剣術書は一族最大で, 門弟は一万三千とか.

浪人の間,剣術修行で各地を流浪していたとし, 剣術修行も表向きで, 実は宗矩の隠密として働いていたという説が生まれ, これが小説などでとりあげられ, 柳生家一番人気の理由である.
実際, 剣の腕は確かであり, その手の逸話にはきりがない.

子供の頃, 家に賊が侵入したとき, おとなしく捕まるよう父らを説得し, 機をうかがって見事賊を捕らえたとか,(信頼度1 3がMax)
鍵屋の辻(伊賀上野城の近く),伊賀越え敵討ち荒木又右衛門を指導し,柳生新陰流を皆伝したとか.(信頼度2)
手裏剣の達人, 毛利玄達との試合で,37本の手裏剣を, 落合杖友は, 7本が触れたのに,十兵衛は扇子を持って1本も触れなかったとか.(信頼度3)
ただ,小野右衛門尉忠明(小野派一刀流 秀忠の剣術指南役)にはかなわなかったらしい.

宗矩の手元が狂って, 片目を失明した(信頼度1)のも創作である.



↓柳生心陰流奥義が1つ 合撃(がっしうち)
   相手の拝み討ちに合わせ, こちらも拝み討ちで対し, 相手より速く振り下ろすことで,刀の鎬(しのぎ)を使い,正中線を奪い,こちらだけ拝み討ちが出来る技.