亀山城


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伊勢平氏の末裔 関氏 の城である.

伊勢の平氏残党の乱を平定した平実忠が関氏の祖である
南北朝の時,吉野へ向かおうとする北畠氏を助けた時から伊勢国司北畠氏に味方するようになる.

貞治年間(1360代)には五人の子が分家し,神戸,国府,関,鹿伏兎,峯の五氏が生まれる.

弘治年間(1550代)には佐々木六角氏に攻められ,蒲生定秀の次女を関盛信の妻に, 三女を神戸友盛の妻にすることで和睦した.
永禄十年(一五六七)の信長上洛時には,神戸友盛は信孝を受け入れて降伏, 関盛信は最後まで従わなかったが,六角の降伏に及び信長に下った.
しかし,関盛信は元亀二年(一五七一)の長島願証寺に通じる.
これにより以後関盛信は幽閉される.

天正十年に幽閉を許され,信孝の四国平定に参陣するが,本能寺を知るや亀山に戻り,息子を還俗させ蒲生賢秀の娘と縁を結ばせる.
以後,蒲生の家臣となり,知恵人蒲生氏郷が伊達政宗を抑えに会津四十二万石に転封された時もこれについて行く.
蒲生氏と利害を超えた絆があったのだろうか. 信長に徹底的に馬が合わないのだけは確かなようだ.
なお,清洲会議では秀吉側につき,一時滝川一益に城を奪われるも取り返している.

その後は岡本氏が入城し,老朽化はげしい城を,改めて現在の位置に新築した.
しかし,岡本氏は西軍のため領地没収.

その後,三宅,関,松平忠明,水谷,三宅氏と続く.
三宅康盛の時,堀尾忠晴は亀山城の修理を命ぜられたが,丹波のと間違えて伊勢の亀山城の天守を分解してしまい,ここから天守は再現されなかった

その後,本多俊次,石川,板倉重常らと続き,次の石川の時に明治維新を迎える.



城の構造

東西473m,南北327mと神戸城より小さいが,武家屋敷なども含めると神戸城よりはるかに大きいと思う.
本丸天守台の石垣は堀のそこから20mほどはあると思う.
天守台の上には多聞櫓が唯一の現存物である.(ふつうに考えて不釣り合いではないかと)
本丸北の堀は,亀山高校との間の少しの土地に残っていますが木で覆われていてわかりにくいです.
門跡の碑が建っているのは大手門,江戸口門,楠門,青木門などあるみたいですが,全部は見つけられませんでした.

亀山公園には歴史博物館もあります.(火曜休館です)


↓亀山は東海道五十三次の1つでどこがどの店かもわかっています.
  西と東とあり,住宅地になってたりもしますが見て回るのもおもしろいです.





左上
右上
天守台の上にある多聞櫓・・・
右下 侍屋敷


左上
右上
右下


標高  
比高  
場所 三重県亀山市本丸町
最寄り駅 JR紀勢本線亀山城