岸和田城


岸和田城はいつ頃誰によって築かれたのか不明である

楠木正成の一族の和田高家が岸和田古城をたてたとか
延元元年(一三三六)岸和田氏が楠木正成方として兵庫湊川合戦に参戦したという記録がある
永禄元年頃には松浦氏が岸和田城を居城としていた
その後岸和田細川氏、三好氏などと占拠と後退が繰り返される
信長が上洛し, 三好氏掃討後は国衆は信長の旗下に入る
秀吉が根来など紀州勢力への抑えとして天正一一年(一五八三)中村一氏をいれた
根来壊滅の天正一三年(一五八五)後, 中村一氏は近江水口城へ移動となり, 秀吉の叔母を正室に持ち,のち本能寺の時の秀吉の大返しの時には姫路城の留守役になる小出秀政を入れ, 城下の整備に当たらせた
天守閣を築いたのは小出秀政であり, 慶長二年(一五九七)に完成
徳川の時代になると, 松平(松井)康重,康映二代を経て, 寛永一七年(一六四〇)家康配下の岡部宣勝が入城
以後十三代続き明治維新を迎える




別名千亀利城(ちぎり), ちぎりとは機織りで縦糸を巻く機会のことで本丸と二の丸を合わせた形がちぎりに似ていることからつけられた
二の丸には二の丸御殿があり, 北西の隅には伏見城から移築された伏見櫓が建っていたが, いずれも明治維新の際に取り壊された
本丸への城門(模擬 元の名前等不明)




隅櫓(名前不明) 城周辺に残る武家屋敷(一般住宅のため非公開)








標高
比高
場所 大阪府岸和田市岸城町
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最寄り駅 土佐電鉄伊予線県庁前