北の庄城 柴田家


国道158号線に面していて, 小道に入らなくてもみつかります





応仁の乱の前後, 斯波氏は室町幕府管領で越前,尾張の領国を支配していた.
その斯波氏のもと, 守護代として 尾張を織田家 , 越前, 遠江を甲斐氏 が実地で政務に当たった.
しかし応仁の乱により斯波氏の権力が弱まり, 尾張を織田家が, 越前は甲斐氏の家臣朝倉氏が実権を握ることになる.
つまり, 朝倉は斯波家臣の時には織田以下であったことになる.
また,織田は最後まで斯波の家臣であったため, 朝倉は裏切り者と言うことになる.
このころから, 織田家と朝倉家の因縁が続いていた.


信長は朝倉を滅ぼした
しかし, 越前をそのまま領土とするのは無理であった.
越前は 百姓の持ちたる国 の過去があり,ともすると一向一揆が起こる.
朝倉時代からそうであり,そのため朝倉は他国への侵攻が遅れるのである.

信長は, 降伏してきた前波吉継(まえば)を越前守護代に任命し, 浅井攻略に専念していた.
しかし,朝倉の裏切りという名目で一向一揆により, 天正二年 前波吉継は自刃.
その後も,一向一揆は朝倉旧臣を擁立しては,先に擁立した部将を討つと言うことを繰り返す.
これに担がれ,討たれたのは, 前波吉継, 富田長繁, 朝倉景健(かげたけ), 朝倉景鏡(かげあきら) など
そうそうたるメンバーである.

一向宗の越前支配
下間頼照 総大将
杉浦法橋 大野郡支配
七里頼周 府中支配 龍門寺城
下間和泉守 足羽群支配

それら一向一揆は府中や, 今でも福井有数の湊, 三国, 吉崎御坊を拠点とし,鎮圧にはかなりてこづった.
が, 逆に湊であることを逆手にとって海から攻撃した.
続いて,光秀,秀吉らが上陸し下間頼照(しもづまらいしょう よりてるとも),七里頼周(よりちか)らを追った.
最終的に下間頼照は真宗高田派にうたれるが,真宗高田派は唯一織田方であり,その後,越前で唯一許された一向宗となる.

その後の,一揆勢掃討に功のあった柴田勝家が最終的に越前支配を任される. (この時,信澄も活躍しています!)
しかし,前波の前歴から,さらに与力として金森長近,不破光治,佐々成政,前田利家が勝家の補佐になった.

一向宗の越前支配
柴田勝家 総大将 北の庄城城主
金森長近 目付 大野郡支配
前田利家 目付 府中城
不破光治 目付 府中支配 龍泉寺城
佐々成政 目付 小丸城



しかし, 越前という土地は呪われた土地である.
天正4年(1576), 武田滅亡後の上杉謙信が越前に侵攻してきた.
表向きには七尾城を征服しにきたのだが, 織田本隊との全面戦争を予定して来ていた. この時は織田は壊滅したのであるが, ほとんどの本には載っていないし, 載っていればだいたい勝家のせいにされている.
よって, 間違えているかも知れません


謙信は七尾城を囲んだ. この戦いは天正5年(1577)まで持ち越され, 七尾城主, 長綱連(ちょうつなつら)は織田に援軍を頼んだ.

謙信にとっても, 上洛の最短経路のため北陸方面から攻めてくるのである.
しかし翌天正8年(1578),謙信は脳溢血?のため急死
かくして織田の天下は持ちこたえた.

謙信の死んだ天正8年, 勝家は一向一揆征伐を行い, 神保の籠もる富山城を落とした.
本能寺の変の時も, 勝家は上杉と対戦中で引き返すのが遅れ, 清洲会議でも秀吉に強く出られず,
お市の方をもらい三男信孝,滝川とくむも賤ヶ岳で敗れる.


夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を
    雲居にあげよ 山時鳥
さらぬだに うちぬる程も
        夏の夜の
    別れをさそう 時鳥かな





城の構造

開発が進み, 調査も困難なためほとんどわかっていないが,フロイスの記録によると九重の天主があり,安土城に引けをとらない城だったとか.
また,真上に結城秀康の福井城が建ったため, 調査は困難を極めるらしい.



僕が行ったときは"柴田勝家 ー北の庄にかけた夢とプライド"展がやっていました
柴田勝家の完成図, 賤ヶ岳に臨むにいたり,秀吉,勝家が部下に出した指示書など60以上が展示されていました.
もう終わっていますが, 今までの中で一番大きな展示だったと思う.


↑勝家の馬印 金弊馬印

左上
右上
左下
右下:九十九橋
江戸期には半木半石の橋として
有名だった
勝家が築いたとか



標高  
比高  
場所 福井県福井市中央1
最寄り駅