高野山


 
高野山の歴史や各塔の説明はこのサイトの趣旨とは外れるし, 観光ガイド等を見ていただいた方が詳しく, また正確だと思われる.
高野山と信長の関係についてのみ書く
 
816年に空海が高野山にて開いてより, この地は真言宗の宗教活動の中心となった
 
 
 
最初は財政難であったが平安末期には藤原道長初め白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、徐々に有名人が参拝
高野山は現世の浄土としての信仰を集めていき、寺領も増加した
源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになった
彼らは戦乱の俗世を避け, 高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ
また、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に二〇〇〇もの堂舎が立ち並んだという
応仁の乱を経て戦国時代になると、他の寺社(延暦寺, 本願寺等)同様, 自身で武力を蓄えていった
しかし, 尾張統一の後, 上洛をはたし, 次第に天下を手中に収め始めた織田信長からの上納や臣属を迫られる しかし, 比叡山焼き討ちや石山本願寺攻めなどでもとより寺社に信心のない信長に臣従しても得は無く, 織田信長と対立するようになった
天正九年(一五八一)、信長に謀反した荒木村重の家臣数名が高野山に逃げ込み、信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めたが、高野山側は信長の使者を殺し要求に応じなかった
そのため信長は高野山攻めを開始 しかし、信長が本能寺の変に倒れ, 高野山は難を免れた
豊臣秀吉も、最初は高野山に寺領の返還を迫るなどの圧力をかけたが、秀吉に恭順の意を示し、石高は減らされたものの、高野山は存続できた
のちに秀吉は保護するようになり、寺領寄進や亡母の菩提のため、山内に寺社を建てた
徳川の世となり, 仏教を積極的に保護したため, 諸大名を始め多くの有力者が高野山に出資、墓碑、供養塔などを建立するようになった
 
 
 
10年間の抵抗の後, 石山本願寺が降伏、開城となった天正八年(一五八○)、信長は突如尾張時代からの譜代の功臣, 佐久間信盛とその子を高野山に追放した
その理由とは本願寺攻めに際して父子とも、目立った働きをしていない
本願寺は強敵ではあるが、武力がおよばなければ、調略するなり、応援を頼むなり、なにか方法があるだろうにひたすら力攻めをし続け, 多くの兵を失った
欲が深く、吝嗇(りんき=けち)で、ひたすら私欲を蓄え, よい家臣を抱えようともしない
その他, 光秀, 秀吉, 池田, 柴田らと比較され批難
そのため、父子とも高野山に追放ということである
しかも信盛の2日後に信長は、尾張時代から付き従ってきた重臣, 林道勝にも兄弟争いの時に信長の弟である信行を推したという理由で批難, 追放している
家臣団粛正, 禄の分配のためのリストラ等あるが, このころより武家の敗北者の終焉の地といった意味合いも出てきたようである
真田一族も高野山一体の九度山に幽閉 後に大阪城救済に自力で下山するのだが, それは後の話………
実子の無かった秀吉に養子入りし, 自他共に跡取りと思われていた関白秀次も実子秀頼が出来たとたん, 目の上のたんこぶ状態となり, 最後に謀反の嫌疑をかけられて高野山に追放
高野山で自害する
 
 
 
戸次川の戦いで大敗を期した仙石久秀も高野山に追放