熊本城



この地の城がいつからあったか定かではないが, 南北朝時代には, 南朝側と北朝側が隈本城の攻防を繰り返したという記述がすでにある
菊池氏の代官として出田秀信が修理したという記述がある
この頃の隈本城は現在千葉城と呼ばれるあたりにあったと思われる
大永,享禄年間, 鹿子木親員は千葉城では手狭になり, 現在の県立第一高校のあたりを中心に隈本城を建てた
天文一九年(一五五〇)鹿子木氏は菊池義武を要して, 大友氏に抵抗するが敗北し, 菊池義武は金峰山に逃亡
鹿子木氏の後は, 菊池氏の家臣の城氏がはいる
しかし天下統一を目指す羽柴秀吉に城氏は敗北
肥後は佐々成政のものになる


佐々成政が島津への抑えとして入るが, 秀吉に敵対したことの遺恨もあり, 領内で一揆が勃発した責を負わされて,尼崎で切腹
このときの検死役が加藤清正であった
天正十六年(一五八八)加藤清正が肥後北半国19万5千石の領主として隈本城に入る
南半石は小西行長のものとなった

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の時, 小西行長は敗北, 斬首
加藤清正は肥後南半国54万石ももらい受ける
慶長六年から加藤清正は隈本城を大幅に改修し, 六年かけて築城する
新城落成時に, 隈本城を熊本城に改める
慶長十六年(一六一一)加藤清正病死,三男忠広が家督を継ぐ


寛永九年(一六三二)加藤家は改易,出羽庄内へ配流となる
代わりに細川忠利が豊前小倉から入封
ここ熊本は佐々成政, 加藤清正と二人の短命な統治のため, 治めにくく,失敗すれば切腹もあり得るというイメージがついていた
そのため, 誰も入りたがらなかったほどであるが, 忠利はこの熊本を治めるために, 清正公を徹底的に持ち上げるという手にでた
これにより, 旧加藤家の家来たちも手も足も出ず無事入封がすんだという

寛永一四年(一六三七)天草の乱
寛永一七年(一六四〇)剣術なら柳生にも負けないと自負し, 薄給になびかず剣術修行と自らの剣の腕の売り込みを続けていた宮本武蔵も, 島原の乱にて, 一雑兵の落とした石により, 足が折れ,剣術が 少しも役に立たなかったことに折れ, 加藤清正に仕えるようになる
寛永二〇年(一六四三)阿部一族, 宮本武蔵「五輪の書」を記す
時は下って明治維新になり, すべての民は天皇の元に平等とする革新は士族を没落させるものであった
その動きがここ九州で活発であり,大久保利通, 西郷隆盛の対立などで, 佐賀の乱(江藤新平), 神風連の乱, 西南戦争(西郷隆盛)などがおこる
明治十年(一八七七)の西南戦争では西郷隆盛が, 薩摩の士族を連れて北上
しかし,西郷軍はどうしても熊本城を落とすことができず、城の北方の田原坂で決定的な敗戦を喫する
しかし,この際に,城内より原因不明の出火が発生
この出火で天守閣が焼失したが,宇土櫓は残った



城の構造

七層大きな三角の千鳥破風が特徴的な黒を基調とした城
白川と井芹川を外堀とし、外郭10km
天守の高さ30m, 小天守の高さ18m、宇土櫓をはじめその他各郭に五重櫓が建ち並ぶ圧巻の存在であった



南大手櫓門 西大手櫓門

須戸口門 櫓群(前から源之進櫓, 四間櫓, 十四間櫓, 七間櫓,田子櫓)


二様の石垣 闇り御門



飯田丸五重櫓数寄屋丸

宇土櫓 第三の天守と呼ばれる 西南戦争で焼け残った
熊本城は宇土櫓をはじめその他各郭に五重櫓が建ち並ぶ圧巻の存在であった
加藤清正像






周りには明治になってから清正を祀るためにできた加藤神社, 細川忠利が作った庭園, 水前寺公園, 細川刑部邸,細川忠興,ガラシャの墓を移した泰勝寺などがある










標高
比高
場所 熊本県熊本市1-1
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最寄り駅 市電市役所前


    
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