千早・赤坂城





元弘元年(一三三二),鎌倉幕府倒幕計画が発覚し,笠置山に逃れた後醍醐天皇をお迎えするために楠木正成が急遽築城したのが,赤坂城
後醍醐天皇は途中でとらえられたが,正成は護良親王を奉じて赤坂城に籠城
北条軍(鎌倉幕府軍)の大群に攻められ,赤坂城は落城し,正成は金剛山の麓の千早城に退却する
その後,再び赤坂城を奪還するが,挙兵してから百日間のこの籠城の間に鎌倉幕府は滅亡する
太平記に,敵は百万騎,味方は僅かに千人足らずにて「誰を憑み何を待つ共なきに城中にこらへて防ぎ戦いける楠木が心の程こそ不敵なれ」とある
山城を利用し,落石や藁人形の見せかけ兵,熱湯・糞尿攻撃等で鎌倉幕府の猛攻に耐え,滅亡に導いたのである(楠木正成は実は山賊か)

鎌倉幕府滅亡後は後醍醐天皇の京凱旋に付き添い,ともに鎌倉幕府の滅亡に協力した足利尊氏らと京に入る
しかし,足利尊氏が北条残党狩りに京を離れた間に,護良親王の謀反容疑,後醍醐天皇の足利討伐令の板挟みとなり,しかたなく尊氏と対立
湊川の戦いで対決し敗れ,自害した

楠木正成の評価は結局、北朝側の勝利に終わったため,南朝側の正成は朝敵となった
しかし,幕末の水戸学で正成は再評価
明治になり南朝が正統となると「大楠公」としきりに持ち上げられ,正一位を与えられた(皇居の楠木正成の銅像はこの関係)
楠木正成の佩刀は掏り上げにより,竜の彫刻の下半分が隠れ,鍔から竜がのぞいているように見える小竜景光




城の構造

千早城は金剛山の麓
府道からの入り口(案内板)が大手門,約五六〇段の石段を登ったら尾根筋に広場、茶店(跡)のあたりが三の丸、千早神社が二の丸、本丸は藪
上赤坂城は目印はないが給食センターのあたりか
府道沿いに看板があり,木戸跡や土橋と二重堀切等,千早赤坂城の中では一番遺構が残っているらしい
下赤坂城は千早赤坂村立中学校の裏手
ちょっとした広場があるだけで遺構は全くないが,裏の棚田は日本百選に選ばれるほど
楠木正成公生誕の地には郷土資料館,楠木正成の墓,後村上天皇陵等が散在している
ただし,バスは1時間に1本程度などで車は必須かと……


千早赤阪村のHP


皇居の楠木正成の銅像
小深バス停の交差点
  千早城へはここで曲がる
  これを間違うと絶対見つからない……


府道からの入り口
  ここから階段で上っていく
  大手門があった

三の丸
  この上の千早神社が二の丸、本丸は藪


千早赤坂村立中学校への入り口 下赤坂城
  中学校の裏手にある


日本の棚田百選に選ばれた千早赤阪村の棚田


楠木正成公生誕の地


標高 千早城:660m
比高 千早城:150m
場所
最寄り駅



    
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