二条城


二条城のパンフレットなどを見ると,どれも家光が作ったのから始まっているが,最初に作ったのは信長である.
信長が作ったのが,二条御所(二条御新造).家光が作ったのが,二条城である.

永禄八年(1565 1557を永禄に足すと西暦になる),足利義輝暗殺される.これから覚慶,還俗して足利義秋の将軍就任活動が始まる.和田惟政の館,朝倉へと身を寄せつつ諸国の大名に同行を求める.永禄十一年,不覚にも朝倉義景が暇を与えた明智光秀が,細川藤孝らを信長に引き合わせ,信長の上洛作戦が始まる.四万ともいわれる大軍で,六角を吹き飛ばし,三好の砦を落とし,百日以内に上洛するのである.
上洛し,義昭を将軍職に就け,岐阜に帰国する際,義昭を六条本国寺に入れて帰る.しかし,三好と斉藤龍興の連合軍が,その隙をついて永禄十二年の正月,本国寺を攻める.光秀,藤孝らの懸命の防戦により,何とか防げたが,信長は大雪の中,わずか十騎で岐阜から駆けつけ,新たな堅固な城を造ることを約束.室町通りの斯波管領邸跡に二重の水堀と石垣で固めた城を造った.これが室町第,二条御所である.
この後,義昭は二条御所を,対信長用に改造した.義昭を追放した後はどうなっていたか?修築し,在京中の宿城として,公家などをここに招いていたが,天正七年,天皇家に寄贈する.この時の天皇は正親町天皇であり,何度か信長の危機を救ってくれる天皇であるが,この寄贈以来,密接な関係になったとか.
その後,本能寺の時に,信忠がここに籠もり,自刃.この時に信長の二条城は焼失する.

その後,寛永元年(1623),3代将軍家光が,後水尾天皇の行幸(みゆき)を仰ぐため,伏見城を取り壊し,天守閣などを移して建てたのが徳川二条城である.玉座には金銀を用い,とても豪華なものである.
江戸期中は徳川家所有で,城中には若年寄支配の二条定番がおかれ,京都所司代からは二条鉄砲奉行もおかれていた.そのころの番所が今なお残っていて,貴重だそうな.
慶応三年,十五代慶喜は,ここで大政奉還を行い,その後は朝廷所有となっている.

二の丸御殿が国宝になっていて,写真撮影が出来ないのですが,うぐいす張り,欄間の彫刻などが見事.また,人形により,大広間などが再現されていて,江戸の城の中を知りたい方におすすめです.
本丸庭園も綺麗だったであろう面影を残しているが,本丸御殿は,貧相すぎる.

左上 東大手門
右上 唐門(二の丸に入る門 とても大きい)
左下 二の丸御殿
右下 本丸庭園 清流園


左 本丸御殿 天守跡から遠写し




標高
比高
場所 京都市中京区二条城町
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最寄り駅 京都市営地下鉄二条城前駅前


    
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