大内氏館、築山館


周防 大内氏館


大内氏館は、正平十五年(一三六〇)頃大内弘世が築き、それまで館のあった大内御堀から山口に移った。以後、大内氏9代の居城となり、大内氏の領国は中国・九州地方まで及んだため、山口は西日本の政治経済の中心地となった。また、都の戦乱が逃れた文化人が積極的に集まり、大内文化が爛熟して大内家は全盛期を迎えた。
大内家第三十一代当主大内義隆の頃、尼子氏と大内氏が覇権を争っていたが、天文十一年の月山冨田城攻め尼子晴久に大敗を喫すると、以後、文治派の相良武任らを重用し、戦から離れ、京文化にのめり込むようになった。その様子を見た家臣も、武断派(陶隆房内藤興盛ら)と穏健派(相良武任ら)に別れて対立していた。
 天文二十年(一五五一)、大内家重臣で武断派の陶隆房が大内氏の重臣杉重知内藤興盛らを味方にひきいれて謀反を起こし、山口の築山館に大内義隆を襲った。 義隆は山口を逃れて長門国美祢郡岩永へ落ち延び、長門深川の大寧寺にて自刃した。
 弘治3年には陶晴賢によって擁立された大内義長(大友義鎮の弟)も、毛利元就によって攻められ、長府の長福寺にて自刃し、ここに大内氏は完全に滅亡。 防長両国は毛利氏の所領となった。これにより大内家は滅亡した。
その後陶隆房は、毛利元就厳島合戦で激突。村上水軍を引き入れた毛利元就が大勝し、陶隆房も自刃した。

 弘治3年、毛利元就の嫡男隆元は烏帽子親であった大内義隆の菩提を弔うため、この館跡に龍福寺を建立した。


   大内義興 大内家第三十代当主。大内義興は室町幕府管領代となり、周防、長門、豊前、筑前、安芸、石見、山城の各国守護。また朝鮮、明との貿易に力を入れた。
流浪の将軍・足利義稙を擁して上洛を果たし、将軍職につけた。上洛中に出雲の尼子経久が領国の安芸・石見に勢力を伸ばしてきたため(1517年〜)、管領代を辞して山口へ帰国。連年のように尼子氏と攻防を繰り返すも享禄元年(1528年)7月の安芸・門山城攻めの最中に病に倒れ、山口へ帰還。
療養に入るも間もなく死去した。享年五二歳。
城の構造


西国一の富と権勢を誇った大内氏の居館、堀と土塁に囲まれた百間四方の城域があったとか。 現在の龍福寺と住宅地となっていて、居館の面影は殆ど留めていない
釈迦堂(本堂)本堂は国指定重要文化財
明治14年に火災にあい禅堂と山門を残して焼失。 そこで再建に際し、元大内氏の氏寺であった興隆寺の本堂を移築したのが現在の本堂である。

桁行五間、梁間五間で、屋根は入母屋造り、屋根は興隆寺にあった時はこけら葺きであったが、移築して本堂となってからは桧皮葺。


龍福寺の山門脇の両脇に僅かではあるが土塁の名残を見ることができた

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龍福寺外周
 土盛りの部分が土塁、砂利の部分が掘であるようだが、余りに整備されすぎて原型をとどめていない
立福寺山門
大内義隆主従の墓
天文二十年(一五五一)、陶隆房らの謀反により、山口の築山館で襲われた。
義隆は山口を逃れて長門国美祢郡岩永へ落ち延び、長門深川の大寧寺にて自刃した。
大内義隆辞世の句
「討つ者も討たるる者も諸(もろ)ともに 如露亦如電応作如是観(人の一生は、露のごとく雷のごとく儚いものだ。まさにそう覚悟するべきである)」
龍福寺資料館
大内義興公の像
大内家第三十代当主。室町幕府管領代、将軍を擁して上洛。西国七カ国の守護。また、朝鮮、明との貿易に力を入れた。
連年のように尼子氏と攻防を繰り返すも最中に病に倒れた
池泉庭園
大内氏館の頃から池はこの形らしい・・
池にはおたまじゃくしが居ます
水もきれい
せん列建物
池泉庭園と同時期に建てられた建物
建物の礎石
石組みかまど 石組井戸




周防 築山館


 築山館は、山口に居館を移した大内弘世の子義弘によって別館として築かれた。 弘世の代には周防一国の守護であったが、義弘の代になると周防・長門・豊前・筑前の守護となり、大内氏館(大殿大路)が手狭になったため、これに対応するために築かれ、単に別邸と云うわけではなかった。
 築山館は、現在の築山神社・八坂神社境内と神社東側と北側の住宅地一帯が城域であったとか。大内滅亡後荒廃した。
 館の周囲に石垣を廻らしてあったが、現在では築山神社社殿の西側と北側に僅かに残っているのみである。 






 
八坂神社本殿 築山神社


標高
比高 m
場所 大内氏館:山口県山口市大殿大路(龍福寺) 大内氏館:google地図で見る
築山館:山口市山口市上堅小路(築山神社) 築山殿:google mapで見る
最寄り駅 JR上山口駅








    
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