岡山城 宇喜多家池田家


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岡山城の前進は金光宗高の石山城である
元亀元年(一五七〇),が金光宗高を謀殺し, この地に築城を始めた
宇喜多直家は権謀術数を 得意とし, 「戦国の梟雄」と恐れられた
石山進出後も領国の平定に明け暮れている間に天正九年(一五八一)病没
秀家の子宇喜多直家は備前,美作を統一し,毛利方について,天下を統一しようとする織田信長と,その命で中国地方の山陽側の総大将であった羽柴秀吉にはじめ敵対していたが,寝返り,毛利方を秀吉とともに攻めた
直家の母,円融院(於福)は10歳の八郎(秀家)をつれて,備中松山城攻めの秀吉に謁見
美貌の誉れ高かった円融院は秀吉の側室に,八郎は秀吉の養子となり,元服して秀家と名乗り,秀吉の養女となっていた前田利家の娘豪姫を妻に迎えた
秀家は秀吉から養子にふさわしい城の建築を命じられ,石山を捨て,岡山の地に岡山城を築城した
途中朝鮮出兵で総大将として2年間抜けたが,足掛け八年かけ完成した
城の完成後すぐの慶長三年,秀吉が死去
五大老(徳川,宇喜多,前田,毛利,ー)の中で,横暴が増えてきた家康と光成らの間で慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦がおこる
西軍についていた秀家は島津家に一時匿われるが,後自首して八丈島へ島流しとなる
秀家は流罪後,五十年帰る日を待ち続けて死去
宇喜多家は二代で滅亡した

その後,岡山城には寝返って関ヶ原の合戦を勝利に導いた(?)という小早川秀秋(秀吉の養子であったが,秀頼誕生後は,小早川隆景の養子となっていた)が入る
しかし,東軍に寝返った行動に他の大名から家臣にまで白眼視され,退去する家臣まで現れた
秀秋は乱心し,ついに家臣を手討ちにしたりしていたが,わずか入城後2年,二一歳の若さで不明死した

小早川断絶後は,池田輝政の次男忠継が入り,以後池田家が十二代続き,明治に至る




城の構造

この旭川の西岸の地には,天神山,石山,岡山の3つの丘陵があった
金光時代は石山にあった(今の天守より300m西,市民会館や放送局のあたり)
直家の子宇喜多秀家が太閤の養子にふさわしい城をということで,石山を捨て岡山の地築城を開始した
旭川の流れを付け替え,掘削した土砂を積み上げ,八年かけ完成した
天守は三層六階,外壁の黒漆は雨に濡れると濡れカラスのように光るため,烏城と呼ばれた
池田忠継は表向き御殿や現存する月見櫓などの多くの城門や隅櫓を建築した
明治維新後は,天守閣,石山門,月見櫓,西手櫓以外の建物は破却された
その後,天守閣,石山門は岡山大空襲で全焼
昭和四一年に城の大規模な復元が行われた
後楽園は池田岡山第四代藩主の池田綱政が造園した特別名勝


周辺には秀吉の水攻めで有名な備中高松城,言い伝えでは温羅(桃太郎伝説の鬼)が住んだとされる,鬼ノ城がある


少し足をのばしたら,天領として港町として栄え,当時の風情を残し,『るろうに剣心』などのロケ地としても使われる倉敷美観地区などがある→倉敷観光WEB


月見櫓
元和〜寛永年間に作られたのが唯一現存している


表書院
  本丸内にあり,岡山藩の政治は実際にはここで行われていた


廊下門 不明門




後楽園
  池田岡山藩第四代藩主池田綱政が造園した
  特別名勝
後楽園から岡山城を見る






標高
比高
場所 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3

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最寄り駅 JR東海道本線岡山駅から城下駅













    
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