堺城(堺環濠)  




堺はその名の通り, 摂津, 河内, 和泉の境にあり平安時代より京都と熊野詣での間にある重要な地であった
南北朝時代には水軍の要として北朝, 南朝が奪い合ったほどであった
室町時代には日明貿易の港としてさらに栄えた
戦乱の世にあっても, 財力もあった堺はどこの大名家にも属さず有力商人らの集会(三十六人衆, 会合衆)によって治められる自由都市を保ち、町の周囲は環濠(堀)に囲まれていた
阿波と河内一帯に勢力を持っていた三好家は交通の要として堺を庇護していた
しかし、上洛し, 自治勢力を嫌い, また堺の裕福な財力がほしい信長は, 服従の意もこめて二万貫の矢銭(軍事費)を要求した
当初会合衆は信長をただの田舎者と見て一蹴し, 三好と結んで, 抵抗するつもりであった
しかし,三好勢を一掃した信長に街を焼き払い, 皆殺しにするぞと脅され, 信長の実力を見抜いていた今井宗久, 千宗易(利久)らの機転にて献金, 臣従
これにより堺は攻め滅ぼされること無く, 無事にすんだ
しかし環濠は埋め立てられ, 清洲の経済担当松井友閑が代官となった
宗久は信長に付き, 資金調達や鉄砲生産などで信長を助けた 千利休は茶頭に任命され, 大名家の茶の湯の指導などに活躍した



城の構造
応永の乱において大内義弘は堺に城・砦を築き拠点としたが、明確な遺構は残っていない
信長, 秀吉に環濠を埋め立てられ, のち家康によって環濠の復旧を許されるも、大和川の付け替えによって堺港には土砂が堆積するようになり、往年の繁栄が戻ることはなかった
環濠は街の南, 西側は環濠の面影が残っているが, 東側は土居川公園となっていて、すでに水は流れていない



 
 
鉄砲鍛治屋敷


   
土井川公園


  千利休屋敷跡




標高 千早城:660m
比高
場所
最寄り駅 千利休屋敷跡,土井川公園 堺駅より阪堺電気軌道宿院駅





    
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