佐倉城



佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532年から1552年)に本佐倉城主千葉親胤より命ぜられ、千葉氏の一族である鹿島幹胤(もとたね)が鹿島川と高崎川の合流部で北に印旛沼の広がる鹿島台に築城を開始
しかし、鹿島幹胤、千葉邦胤と佐倉城の築城途中に暗殺され、中断されていた

慶長十五年(一六一〇)に徳川家康の命で、佐倉に封ぜられた土井利勝が六年の歳月をかけて完成させた
以後、江戸の東を守る要として、有力譜代大名が城主となり、歴代城主の多くが老中など幕府の要職に就いた
なかでも、幕末期の藩主堀田正睦は老中として日本を開国に導いた
明治維新後には城址に陸軍歩兵第二連隊(後に第五十七連隊=通称・佐倉連隊)が置かれたために櫓や門などはそのほとんどが取り壊され、昭和二十年の終戦まで軍隊が置かれていた
昭和五四年から公園の本格的な整備が始まり、水堀の復元・本丸跡・出丸跡・三逕亭(茶室)などが整備された
また、昭和五八年、明治百年記念事業として、公園隣接地に国立歴史民俗博物館が開館し、現在に至る


城の構造


市指定史跡、日本一〇〇名城

西と南に断崖 北に印旛沼という天然の要害
佐倉城はこうした地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配して、城下町とした
銅櫓、隅櫓、大手門があったが、幕末ごろから荒れてきていた
天守も文化十年(一八一三)に盗賊の失火により焼失した

佐倉城の建物としては現在、門が一つ保存公開されているに過ぎない
この門は、簡易的な薬医門であり、城外へ移築されていたものを城内に戻したものであると推定される
国立歴史民俗博物館建設の際、敷地一帯の発掘調査と整備が行われ、連隊当時に平削・埋立された遺構の一部(馬出し・空堀・土塁等)が復元された
明治時代始めに撮影された写真が比較的多く残っており、建物の跡には写真を載せた説明の看板が設置されている
VRアプリで見ることもできるとか
また、佐倉市の市制50周年記念事業(2004年)として佐倉城再建促進協議会などにより佐倉城の再建計画も持ち上がった


佐倉市のHPには佐倉城の案内図がPDFで載っていて便利!



     
佐倉陸軍病院跡
愛宕坂
田町門があり、椎木曲輪へつながる坂だった
土塁
国立民俗博物館
佐倉城の椎木曲輪だった場所
縄文から現代までの人々の暮らしの移り変わりなどをジオラマで再現していたり、非常に大きい
馬出し
120m×40m 深さ5.6mと非常に大きい
椎木門
この門の外側に馬出を設けていた
空堀
写真で伝わるかわかりませんがとても深い!!
二の丸
本丸跡
文化十年(一八一三)に盗賊の失火により焼失した
銅櫓跡






こんな本丸があったようです



 
 
標高  
比高  
場所 千葉県佐倉市城内町官有無番地
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最寄り駅 京成電鉄京成佐倉駅、JR佐倉駅


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