島原城






松倉重政がキリシタン取り締まりの命を受け, この地に島原城を建てた
それにあたり,原城は廃城とし,資材は島原城に再利用された
重政は双方の緩衝をはかりながら統治してきたが,養子は重政が死ぬや,強攻策を開始
一層厳しいキリシタン取り締まりを敢行することになる
これに,役人の重税,旧有馬家取りつぶしが相乗効果となって,島原の乱が勃発することとなる


島原の乱後,松倉氏は改易,以後譜代大名が4氏入れ替わる
島原城は築城以来250年にわたり島原藩政の中心として栄えた
明治以降は破却されたが,現在は復興されている

島原城の外郭は東西約360メートル、南北約1260メートル
周囲に約3900メートルの塀と四万石にしては大きなものであった



近くには龍造寺隆信の墓もある

堀には菖蒲,蓮の花が分けて植えられている
丑虎の櫓







沖田畷の古戦場

龍造寺隆信の墓


戦国時代, 九州は有馬氏, 龍造寺氏,島津氏の三つ巴になっていた
(大友氏は龍造寺が滅ぼした 龍造寺の家臣として鍋島直茂も有名)
そんな中, 天正十五年(一五八四),龍造寺数万と島津,有馬連合軍八千が,ここ沖田畷で激突した
激戦の中大将である龍造寺隆信自身が討ち取られる結果となって終結
これにより龍造寺家は滅亡する

・・・隆信は「肥前のクマ」と呼ばれ,あまりの巨体に自分で歩けないため輿に載っていたとか・・・


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標高  
比高  
場所 長崎県島原市
最寄り駅 島原鉄道島原駅


    
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