勝竜寺城(青竜寺城)





歴応二年(一三三九)に南北朝で北朝側の要として細川頼春が築城したといわれている
もしくは,応仁の乱で西軍についた畠山義就が築城or修築したとも
永禄十一年(一五六八)織田信長足利義昭を奉じての上洛の際には,三好三人衆の一人,岩成友道が立てこもっており,柴田勝家に攻められ落城
元亀四年(一五七三)に織田信長は旧城主の流れをくみ,細川藤孝を城主に据える
十六歳の細川忠興,玉(ガラシャ)が結婚したのもここ勝竜寺城
天正十年()の本能寺の変では宮津城に移り,留守中の勝竜寺城に明智光秀が立てこもる
山崎の戦いでは明智光秀が勝竜寺に,羽柴秀吉が山崎城に陣取り,長岡京と山崎の間で戦を繰り広げた
その後,光秀は知っての通り敗北, 坂本城へ退却途中に小栗巣で落ち武者狩りに合い死亡
勝竜寺城は光秀の家臣三宅綱朝が守っていたが落城
その後は廃城となった





細川藤孝について

足利将軍家の連枝,三淵晴員の次男
和泉半国守護細川元常の養子となる
三条西実枝から古今和歌集の解釈を相続した唯一の人で,後に八条宮智仁親王へ伝授もしている文武両道の人

はじめ第十三代将軍足利義輝の家臣であったが,永禄八年(一五六五),三好三人衆に攻められた後は足利義昭の擁立に尽力する
はじめ近江の六角義賢、越前の朝倉義景に頼るが,上洛するような甲斐性は無く,織田信長のもとに来ると,下へも置かぬおもてなし
二つ返事でOKするとすぐに上洛し足利義昭を将軍職に就けた
しかし,後に信長と義昭が対立するようになると,義昭の器の小ささを見抜いたのだろうか
徐々に信長寄りになり,追放後も信長に仕えて戦功をあげる
天正六年(一五七八)、信長の薦めにより,嫡男細川忠興と光秀の娘お玉の婚儀がなる
丹後南部を光秀とともに平定し、丹後南半国支配を認められ宮津城を居城とした 本能寺の変の時は,光秀に誘われるも拒否
剃髪し,幽斎と名乗る
慶長五年の関ヶ原の戦いでは忠興が家康とともに出陣し,丹後田辺城を少数勢で守っていたところを攻められる
果敢に抵抗するが, 多勢に無勢敗北寸前のところで後陽成天皇より古今伝授を伝えるものがいなくなるとの勅旨にて,講和が成立
この戦いで東軍で果敢に守り抜いたとの功で家康より豊前小倉藩四十万石を与えられたという
藤孝の孫で忠興の子忠利は肥後熊本藩54万石の藩主となった




城の構造

 元々の勝竜寺城は方形の本丸を中心にその西側に沼田丸、沼田屋敷、北側に松井屋敷、米田屋敷、さらに北方に外郭と神足屋敷が構えられていた
 近年の発掘調査でこうした構造の大半が石垣によって築かれていたことや、虎口部分が枡形虎口となっていたことが明らかになり、近江安土城に先行する織豊系城郭であることが判明した
 また、本丸と沼田丸の間に土塁があり,そこに"殿主"なるものの存在したことも記されており、天主に相当する高層建築も存在していたようである


江戸時代の勝竜寺城本丸跡?
長岡京駅付近


神足神社内に残る土掘跡
土橋




北門跡
本丸跡


細川忠興とガラシャ





標高
比高
場所 京都府長岡京市勝竜寺13番
最寄り駅 JR東海道本線長岡京駅