末森城



天文十七年(1548 信長の生まれたのは天文三年=1534), 信長の父 織田信秀 は城山に末森城を築き,古渡城から移った. 対今川,松平のためであった.
信長の母 土田御前 も末森城にやってきて, 信長を疎んじるとともに信行を偏愛したという.
信秀死後, 信長の弟 勘十郎信行 が城主となるが, 以後清洲の信長と対抗する拠点となる. 信行は, 稲生ケ原(いなおがはら)の戦いで, 十分の一の信長勢に負ける. そして病気を称した信長に清洲に招かれ, 謀殺される.
稲生ケ原では,信行は 林美作守光春(林道勝の弟) と 柴田勝家 の二手に分けて攻撃を仕掛けたが, 信長は退く振りをして巧みに田に柴田を誘い込んで破り, 次に林美作軍を破り, 信長自ら美作守を討ち取った.
信行謀殺後は廃城となる.

幸い末森城内に城山八幡宮があったため, 城址のほとんどを確保でき, 現在も室町末期の平山城として良く残っている.
末森城は東の丸と西の丸からなり, 二重の堀で囲まれていた. 内堀には馬出しの祖先の三日月堀が存在したらしいが, 今はなくなった.それでも,内堀のほとんどが残り, 都会の中で意外なほど保存がいいです.
鳥居をくぐるとすぐある赤い橋ですが, 実はこの下はただの崖ではなくて内堀です.この堀は献茶殿の女坂まで続き,また拝殿の後ろにもまた続くようです
二の丸(西の丸)跡は 愛知学院大学大学院になっています.


左上 入ってすぐの内堀跡(南側)
内堀の底で撮影
右上
左下 駐車場の末森城跡碑
右下 女坂から内堀を写す
この先に橋がある


上 神楽殿裏の内堀(西側)
城山八幡宮
由緒あるらしく,お守りも高め


名古屋市ホームページへ 名古屋市千種区城山
最寄り駅 名古屋市地下鉄本山駅

稲生ヶ原,信長ゆかりの古城などについては 歴史読本 2005年9月号 に詳しい