竹田城






縄張りが虎が臥せているような縄張りから、虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)とも
国指定史跡
また、しばしば円山川の川霧に麓の山が包まれ、霧の中に石垣の縄張りのみが浮かんで見えることから、天空の城日本のマチュピチュとも呼ばれる

嘉吉年間(一四四〇年頃)に当時の但馬守護山名宗全が配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされている
その後、太田垣氏が7代に渡って城主を務めた
しかし、天正八年(一五八〇)羽柴秀吉の西国攻略の一環で、弟の羽柴秀長により竹田城は三日で落城
太田垣氏は滅亡。竹田城はその後、羽柴秀長、桑山重晴を経て赤松広秀が治める
赤松広秀は竹田城を鉄砲での戦いにも耐えうる堅城にするため、現在の総石垣に大改修をした
また「仁政の主君」として領民から慕われ、養蚕や漆器産業を奨励し、近世儒学の祖の藤原惺窩を援助したりした
しかし、関ヶ原の戦いで最初は西軍につき、細川の守る丹後田辺城攻めをしたが、西軍の敗戦を知り、竹田城に撤退
その後、東軍として鳥取城を攻めていた因幡鹿野城主亀井・矩から来援要請を受け出陣するが、鳥取城攻めの際に城下町を放火したとの罪で(家康は始めに西軍についていたことを許さなかったのだろう)自刃させられ、それにあわせ竹田城も廃城となった


城の構造


標高三五七.七mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれており、縄張りは南北約四〇〇m、東西約一〇〇m。東に立雲峡。天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある
建物等は廃城ののち荒廃し、跡形もないが、総石垣はそのままの状態で残っている

城ブームに伴い、訪問者数が激増し、城のところどころに崩落の危険が予想される箇所が出てきたことから、入場料が設定され、修復等に当てられるようになった
また、冬期は入山時間が10時〜14時と短くなり、積雪が深くなると登城禁止となる日もあるので、訪れる時は注意が必要である

竹田城は合戦時に籠もるための城であり、城主や家臣達は普段は現在の竹田駅周辺に生活していた
それらの名残で、殿という地名が残る 和田山駅周辺はかつて宿場として栄え、それらの名残が、旅館として今も残る


和田山観光協会サイト朝来市竹田城跡公式HP等参照を










                                     
竹田城のふもとにある「山城の郷」
お土産屋とレストランがあります
冬期はここまでしかバスやタクシーで登ることができなくなります
入り口
有料になりました
入場料は修復費用にあてられるそうです
大手門跡
北千畳より南千畳方向を見た
北千畳より市内を見下ろす
超高いです
北千畳です
二の丸
本丸
天守台
天守台より南二の丸、南千畳を見る



   
藤和峠から見る竹田城
竹田城を撮す撮影スポットは立雲峡が一番だが、藤和峠も道路から降りて、小高い丘に登れば、負けないいい写真が撮れる
藤和峠にある大将軍杉
自然の偉大さを感じます
前面には扉のようなものがある

標高 357.7m
比高
場所 兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169


最寄り駅 JR竹田駅