竹中陣屋(菩提山城)
豊臣秀吉の軍師竹中半兵衛重治の本拠地

竹中半兵衛は天文十三年生まれ 17才で家督を継ぐ
中国の武経七書を会得していたともいわれ, 今孔明と呼ばれた
竹中家は代々斎藤家に仕えていたが, 永禄七年,斎藤道三の孫の斎藤龍興のころ, 稲葉山城乗っ取り事件をおこす
これは城内にいる弟の見舞いと称し,長持ちの中に武器を隠し,主従わずか十六名で城を乗っ取ったという事件である
占領した数日後に竹中半兵衛は城を龍興に返し,その後は隠居に入ったため, 龍興の悪政を戒めた物とも, 自分の軍略を確かめたかったためとも, 斎藤一族の者に登城中に顔に小便をかけられた仕返しなど, いろいろな説がある
その後, 秀吉が何度も重治の説得に赴き, これを家臣につけることに成功したため, 信長は美濃を攻略できたともいわれる
信長は何度も美濃を攻めているが, その時に十面埋伏の陣という術でこれを退けたとか
が, 明らかな記述があるのは, 金ヶ崎の退却の時からである
秀吉のもう一人の軍師黒田官兵衛孝高とあわせて,「両兵衛」「二兵衛」とよばれる
織田の毛利攻略中に荒木村重が寝返り, 友人でもあり, 昔の同じ小寺家家臣として, 単身説得に行った黒田官兵衛が幽閉された時,
信長は黒田が毛利に寝返ったと思い, 嫡子の黒田長政を殺せと命じたが, 半兵衛は官兵衛を信じ, 密かに菩提山城にかくまった
このことを官兵衛は恩に感じ, 竹中家の家紋をもらい受けたという
しかし次第に秀吉のもとでは黒田官兵衛が重用されるようになる
秀吉の三木陣中に病に倒れ, 秀吉は京に送り, 療養させようとしたが, 「陣中で死ぬことこそ武士の本懐」といって戻ってきたという
そのまま陣中で死 享年三十六


bodai.jpg(185856 byte) 陣屋の立派な門が残る


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