富松城  
 
具体的な築城の時期は不明であるが、富松城跡は、文献に初めて登場する、細川高国が尼崎城を構築する以前から存在した(つまり築城ではなく改修?)
富松城は、尼崎城と伊丹城との中間にあり、互いの中継地点として重要な拠点であったようである
将軍足利尊氏の家来で足利の支族でもある細川一族は、元弘の役で手柄をたて、阿波国を恩賞として賜るとともに、細川勝元・政元父子を初め、代々将軍を補佐する管領に任じられた
細川政元は、将軍をすげかえ、将軍を傀儡化していく
しかし、細川政元は修験道にこっていたため後継ぎがなく、そこで関白九条政基の子澄之、同族の細川政春の子、高国を後継ぎの養子に迎えた
細川政元が、家督を公卿出身で統率のとれず、また政元と折り合いの悪い澄之を廃嫡
阿波細川氏出身の澄元を養子に迎え入れたことから、澄之、澄元の家臣間に対立が生じた
澄之派の家臣により政元は暗殺され、幕府は、澄之を相続人とするが、今度は澄元、高国で争いが始まる
高国は澄之の宿所を襲い切腹に追いやり、その後、高国は足利幕府の中心人物となるが、以後、尼崎は澄元、高国ら細川家の管領争いの中心地となる



細川政元 関白九条政基の子細川澄之
細川政春の子、細川高国
阿波細川氏出身の細川澄元 澄元の子、細川晴元



その後、三好長慶、織田信長ら中央が台頭してくると、細川対中央の中心地となる

以降歴史の記述から富松城はいつの間にか姿を消した

 
城の構造 
中世城郭の原形をとどめた堀と土塁の一部が現存する
1994年の尼崎市教育委員会の発掘調査から、15世紀前半には、尼崎市史や、日本城郭体系に記されているよりも広い、南北180m、東西150mにわたり、二重の水堀や土塁をめぐらした、瓦葺きの本格的な城館であったことが分かった
 

現在は富松神社の一敷地?としての扱い
富松神社のホームページ「富松の杜」のなかの「富松城趾が今危ない」に詳しい

武庫川の鴨さんもお出迎え
富松神社

御祭神:素盞嗚尊、応神天皇
薬師仏を祀り厄災除祈願所として諸願成就、祈祷祭祀の中心地として平安時代より前から神聖な地として祀られてきた
大通りの脇にある堀
その右の竹藪は見にくいですが土塁です
土塁の上から撮影


 
 
 
標高  
比高  
場所 尼崎市富松町2-23-1 富松神社内
最寄り駅 阪急神戸線武庫之荘駅



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