宇都宮城


はじめて宇都宮城を築いた人物は、平安時代の藤原秀郷とも藤原宗円ともいわれてるが定かではない
二荒山神社は宇津宮大明神(うづ高い宮の意味)と呼ばれ、古くから崇拝されてきた
僧、藤原宗円は、源義家に従い、都から赴任
二荒山神社と一体の統治を任される
源頼朝が奥州藤原氏征伐の際に二荒山神社に祈願したり、どんどん重要な役割を担っていく
宗円の孫あたりから宇都宮氏を称するようになり、そのうちにこの地も宇都宮と呼ばれるようになる
宇都宮氏は鎌倉幕府の有力御家人となり、戦国時代まで城主として統治した
後白河法王を警護する「北面の武士」となった3代目朝綱、百人一首の成立にも深く関わった5代頼綱(蓮生法師)、元寇で出陣した8代目貞綱などが有名

南北朝時代には南朝と北朝を渡り歩き、楠木正成との戦いは、「太平記」で、「坂東一の弓取り」と称えられた
戦国時代には、武田勝頼や、北条氏と戦いながら持ちこたえた

宇都宮城は戦国の世を生き抜いた難攻不落の関東七名城のひとつ


関東七名城
宇都宮城 忍城 金山城 川越城 唐沢山城 多気城 前橋城


多気城を除いて佐竹城を加える説もある


北条を倒した豊臣秀吉は、関東の大名の仕置きを、この宇都宮で行った
宇都宮氏は羽柴姓を与えられたりと優遇されていたが、突然追放となる
その後は、五奉行の浅野長政、蒲生秀行ら豊臣政権の重要人物が統治、関ヶ原勝利後は、奥平家昌が入った
奥平家昌の後は、家康の懐刀と言われた本多正純が赴任
 宇都宮城下の整備を進めた

本多正純の大改造により、1キロ四方もの広さにまで拡大した
また宇都宮城は、歴代の将軍が徳川家康の祀られている日光東照宮にお参りする途中の宿泊場所となり、そのため、宇都宮城本丸には将軍のための「御成御殿」が建てられた

本多正純失脚後は奥平家が再び城主となり、四六年続くが、その後は松平、阿部、戸田家等頻繁に交代となる
幕末には水戸藩とともに尊皇攘夷の先駆けとなった
幕末には藩士のなかには桜田門外の変、坂下門外の変に加わった者もいる

一八六八年に起こった幕末の戊辰戦争では、大鳥圭介近藤勇斬首後の新撰組土方歳三らが率いる旧幕府軍が宇都宮城を攻撃、一時攻略し占拠するも新政府軍の反撃により退却となった
この宇都宮城の戦いで、宇都宮城、二荒山神社、城下は焼け落ちた
なお、この戦いでは旧幕府軍は最新鋭の火器とフランス式歩兵術を採用しており、新政府についた旧式装備の幕府軍に勝利できたという

その後、堀や土塁も崩されて、当時の面影を残すものはほとんどなくなった
宇都宮市制110周年を迎える平成18年度、幕末から約140年の時を経て、宇都宮城を復興する市民の会らの尽力により一部が復元された


城の構造

宇都宮城、土塁・堀と清明台・富士見櫓という二つの櫓があった
とくに清明台は天守閣の代わりをしたものといわれている
富士見櫓はその名の通り、富士が見えることから名付けられた
土塁内部は宇都宮城に関する資料を展示している
復元された櫓と土塀は木造本瓦葺きで白漆喰総塗籠で仕上げられている
復元に使用された木材は、土塀の柱と梁が青森産のヒバ材なのを除けば、栃木県内産の桧・杉・松が用いられている
今後、本丸御成御殿、本丸清水門、本丸伊賀門を復元する計画がある

“よみがえれ!宇都宮城”市民の会のサイトに説明があります



釣天井事件について


釣天井事件」とは、宇都宮城主・本多正純が、日光社参のために宇都宮を訪れようとしていた三大将軍徳川家光公を、からくり仕掛けの天井で暗殺しようと企てたとされ、宇都宮から追放になった事件
しかしこれは事実ではなく、家光が日光参拝の帰路急に進路を変えて宇都宮城を迂回し、その後本多正純が所領没収となった事件をもとに後世に創作されたもの
三大将軍徳川家光は、家康の死後、旧勢力たちを次々と改易、所領没収しており、(その数は家康時代より多かったとされる)、その一つと思われる
その改易に創作が加わり、読物や講談の題材になって、世間に広まった












               
富士見櫓
清明台
栃木県産の桧・杉・松などの木材を用いて再現されています
清水門のあったであろう場所
二荒山神社





標高
比高 m
場所
最寄り駅 JR宇都宮駅