米沢城 伊達家



歴仁元年(一二三八)鎌倉幕府の大江広元の次男時広が建てたのが始まりとか

康歴二年(一三八〇)に伊達氏がこの地を攻略してからは伊達家の支配下になるが, 伊達家第十四代稙宗(正宗のおじいちゃん 名将として名高い)この地に本拠を移して以来伊達家の中心地になる


天正十八年(一五九〇)に伊達政宗は秀吉により岩出山に封じられ, 米沢城には蒲生氏郷の部将蒲生郷安が三万五千石で入城した

蒲生氏が移された後は上杉景勝が一二〇万石で入城, 米沢城は直江山城守兼継が入った
兼継は米沢城を一部改修し,名も舞鶴城と改めた
(蒲生が会津に戻ってきたときには,飛び地として上杉のままだったらしい)
関ヶ原で負けた上杉家は米沢周辺三十万石に減封されたため,米沢を中心として改築,拡張された
外堀を掘り,本丸,二の丸も改修された
しかし, 江戸幕府の城郭制限令や財政難から天守閣は築かず, 御三階櫓が建てられていた(明治初期の古写真に残っている)
しかし, 左遷当初の財政難から, 「石垣の城」とはせず, 「土の城」とした
その後少しずつ増築され,城郭としての米沢城から, 庁舎としての建物へと姿を変えていった
城下の整備も慶長十三年から大いに整備されていった
その後,明治維新では奥羽越列藩同盟を作り抵抗したが,破れ,それとともに廃城となった
廃城後,本丸の跡地に上杉神社を建てたため, 今では米沢城全体が神社のようになっている

周辺には, 上杉伯爵邸, 林泉寺(兼継夫妻の墓), 前田慶次庵などがあり, 兼継ツアーの一環として今も多くの観光客が訪れている




伊達政宗について

人取り橋の戦いについて
天正十三年(一五八五), 伊達政宗の父輝宗は降参を装った畠山義継に誘拐された
このまま輝宗をつれて本領へ戻ろうとする義継を,政宗は父もろとも銃撃した
怒りにまかせた政宗はすぐさま二本松城を攻めたが落ちなかった
それどころか,畠山を助ける名目に,常陸の佐竹義重,蘆名,岩城ら連合軍三万が集結した
これに対し,伊達政宗は総勢八千で迎え撃つ
会津街道の各所で激闘が繰り広げられた
人取橋付近では乱戦となり、本陣と伊達成実軍との間が戦場と化し,孤立した成実は死を覚悟して背面から敵陣に突入し、凄惨な戦闘となった
しかし,状況は佐竹軍に圧倒的に有利であった
兵数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、佐竹軍は伊達本陣に突入、政宗自身も矢弾を受け,退却を決定
退却の際に,七十三歳の鬼庭良直は殿軍を引き受け敵陣に突入,壮烈な戦死を遂げた
政宗は辛うじて退却,日没を迎え、この日の戦闘は終結した
伊達軍の負けは必至であったが,同日夜,佐竹軍の部将が陣中で家臣に刺殺され,さらには佐竹本国に北条,里見が進行中との噂が流れ,佐竹義重は撤退を決定
この戦いで伊達家は壊滅を免れたどころか,逆に三万相手に勝ったと噂され,これらも伊達政宗の謀略説まで出てきた

摺上原の戦いについて


伊達政宗と,蘆名氏との激闘の摺上原の戦いは天正十七年(一五八九)この近くで行われた
畠山義継に父を拉致られ,天正十二年(一五八四)に始まった,人取り橋の戦い以降,伊達家は葦名家との対立を深めていた
蘆名家に従属していた,猪苗代家当時の当主猪苗代盛国が伊達政宗に内応しこれを期に伊達政宗は会津侵攻を開始
しかし,佐竹氏より送り込まれた蘆名家当主蘆名盛氏に対する反感もあり,蘆名家は一体となっていなかった
開戦当初は西から追い風により,蘆名軍が有利に戦っていた
しかし,風向きが東風に変わると伊達軍が逆転し,蘆名軍は総崩れとなった
この後蘆名氏は滅亡に追い込まれたが,伊達政宗は秀吉に惣無事令に違反していると会津の地を没収
会津は蒲生氏郷に与えられた



城の構造
本丸を二の丸が囲み、さらに三の丸が囲む輪郭式
10の櫓と17棟の門が開かれた。先の通り財政難から石垣や天守は構えられず、土塁を築き本丸に2基の三階櫓を建てて天守の代用としていた。
堀の鯉は,J.F.ケネディが師と仰いだという,名財政奉行?(破産寸前の米沢藩を立て直したという)第9代目藩主上杉鷹山が,非常食として飼い始めたという



上 米沢城
櫓などはなく,平屋形式で一見簡素に見える
中 林泉寺の直江兼続とその妻船の墓
     
下 林泉寺



上杉神社










 
標高  
比高  
場所 山形県米沢市丸の内
最寄り駅 JR奥羽本線米沢駅



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