大聖寺城


大聖寺城(だいしょうじじょう)は、鎌倉時代に在地豪族であった狩野氏によって築かれて、その居城となったと考えられているが、詳細は不明
南北朝の争乱の際には、大聖寺城を中心とした戦いがしばしば繰り広げられた
加賀国守護富樫政親一向一揆勢に敗れて加賀国が百姓の持ちたる国となってからは、大聖寺城は南加賀一向一揆衆の重要拠点となった
(北加賀一向宗の中心は) 越前から侵入した朝倉宗滴は天文二四年(一五五五)に大聖寺城等を攻略
朝倉軍は大聖寺城を逆に一向一揆衆討伐の拠点とした
その後、朝倉家家臣が反乱を起こし、朝倉義景に攻め滅ぼされた際に一度大聖寺城は廃城となった
織田信長朝倉義景を滅ぼして越前を平定し、柴田勝家に命じて日谷城と大聖寺城を修復させた
大聖寺城の城主は猛将佐久間盛政となった
その後、織田信長上杉謙信手取川の戦いで敗れた際、大聖寺城は上杉方に一度奪われてしまうが、謙信の死後、織田軍は再び加賀に侵攻し、再度加賀を平定
本能寺の変で織田信長が死亡、天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が敗れた後は、越前北ノ庄の丹羽長秀の与力となった溝口秀勝が大聖寺城に4万4千石で入城
主君の堀秀政の子・堀秀治が加増移封され春日山城に移ると、あわせて秀勝も新発田藩に転封されて大聖寺を去り、この後小早川秀秋の家臣であった山口宗永を大聖寺城に入城した
しかし、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで山口宗永は小早川秀秋とはすでに主従を解消しており西軍についたため、東軍の前田利長に大聖寺城を攻められて落城、山口宗永は自刃した
その後は前田家の家臣が城代を務めたが、元和元年(1615年)の一国一城令金沢城が残り、大聖寺城は廃城となった
寛永一六年(一六三九)には前田利治が7万石を分けられ、大聖寺藩を立てるが、大聖寺城は再建せず、跡地に藩庁として大聖寺陣屋を立てた


城の構造


標高72mの錦城山を中心とした平山城
城域は現在の錦城山公園、加賀市指定史跡。麓にある長流亭は国指定文化財
本丸を中心として、尾根上に北の丸、二の丸、西の丸、鐘ヶ丸、東丸の6つの郭からなる連郭式
本丸と鐘ヶ丸には腰郭、土塁、空堀などが設けられており、本丸には櫓台跡が残存
また、鐘ヶ丸は東西約100m・南北約45mにおよぶ台形になっていて、大聖寺城では最大の広さを持つ郭
また鐘ヶ丸の西・南側には長さ約70m、高さ3〜4m、幅約3mもの巨大な土塁が残っており希少
長流亭 城の麓にある長流亭は、宝永六年(一七〇九)に大聖寺藩第三代藩主・前田利直により藩主の別邸として建てられたもの
小堀遠州が設計したと伝えられている
数寄屋風の茶室は、華やかな元禄時代を思わせる
現在、国重要文化財に指定されている
城の登城口付近の洞窟は贋金造りの洞窟とのこと
小高い山にいくつもの郭とそれらを土塁、堀、谷を配備し、地の利を最大限に利用しているが、朝倉宗滴や前田軍が攻略した時も数日で落城しており、以外に防御力は高くないのかも知れない
階段はそれなりに整備されていて、そこに案内標識はあるが、郭等には何の説明板もなく、アスレチック遊具等があったりもする
遺構がしっかり残っているだけに残念


錦城山城趾保存委員会のHPに詳しい



         
忠霊塔
その後ろの小高い山全体が大聖寺城
比高70m程度の平山城とのことだが、結構高く見えます
贋金造りの洞窟
明治維新の際に新政府軍から越後戦争に使用する弾薬の提供を求められた大聖寺藩がその軍資金を調達するためここで贋金造りをしていたと
銀製品を溶かして山代温泉の湯に浸し、弐歩金として流通させたというしかも、のちに事が露見したときに責任者の市橋波江にすべての責任をかぶせて切腹させたという

その子息には倍の禄を以て功に報いたとのことだが、この事件をパトロン事件という
本丸 左の建物は休憩所 山口玄蕃の碑 後ろの高台が本丸にある櫓台
本丸と櫓台
二の丸
アスレチック遊具は錦城山公園整備事業の一環として作られた物らしい
戸次丸
鐘ヶ丸 番所屋敷跡



江沼神社 ここの庭園に長流邸がある

標高
比高 約70m
場所 石川県加賀市大聖寺錦町 google mapで見る
最寄り駅 JR大聖寺駅




    
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