大分城(府内城)



大友氏は鎌倉の時代に豊後国の守護に赴任して以来22代400年続いた
大友宗麟の時代に周囲四国を領し、勢力最大となった
府内の地は、大友氏の拠点であった
しかし、島津氏に侵攻され、大友氏館は消失
永禄五年(一五六二)、大友氏は本拠地を臼杵へ移す
その後、豊臣秀吉の家臣で、石田三成の娘婿であった、福原直高が十二万石で入封した
秀吉死後福原氏は改易され、早川長政が入るが、これも関ヶ原で西軍につき転封
竹中半兵衛重治の息子、竹中重利が3万5千石でが入城し、完成させた

以後松平氏に代わり明治を迎える


大友宗麟について

本名大友義鎮
出家し宗麟と名乗る
父は大友義鑑
天文十九年(一五五〇)、父に廃嫡されかかるが逆に察知し、返り討ちにする形で、家督を継ぐ(二階崩れの政変) 天文二十年(一五五一)には周防国の大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反により自害すると、弟を大内家の当主に据え、多大な利益を得た
天文二十三年(一五五四)には叔父の菊池義武の反乱をしりぞけ、菊池氏を滅亡させた
また、北九州を平定し、足利義輝にも献上を怠らず、豊前国・筑前国守護から九州探題に任命された
宗麟の前半生をかけ、大友氏は勢力を最大にした

しかし弘治三年(一五五七)、陶晴賢が、毛利元就厳島の合戦で敗れると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう
また、徹底したキリスト教政策により、豊前、筑前の国人が一気をおこし、それに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になった
加えて、大内、尼子を討伐し、中国地方を統一した毛利氏や、肥前で急速に勢力を拡大してきた龍造寺隆信に徐々に勢力を削られていく
天正六年(一五七八)、島津義久耳川の戦いで大敗し、多くの重臣を失った
沖田畷の戦い龍造寺隆信島津家久に大敗し戦死するも、大友氏を支え続けた重臣、立花道雪が病死してしてしまう
もはや大友氏は弱体の一方であり、秀吉に援軍を頼むも、秀吉軍が到着した頃には、病に伏せっていた


城の構造
江戸時代には府内藩2万石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた
さらに第二次世界大戦時の空襲により櫓が数棟焼失した
本丸は具体的な構造は不明だが、四層であったと伝わる
本丸跡北西隅に人質櫓と西丸に宗門櫓が現存、大分県史跡
西丸跡には大分文化会館が、三の丸跡には、大分県庁・大分市役所などがある
現在、城跡は大分城址公園となっている


大分市HPの府内城のコーナー





本丸二の丸西の丸と山里丸をつなぐ廊下橋 山里丸とそこにある松栄神社
山里丸はもともと能などの芸能を行う場所であった
大手門 天守台
人質櫓
真ん中の平櫓に見えるのが宗門櫓
手前が西南隅の二重櫓
奥に見えるのが着到櫓
東南隅の二重櫓 東南隅の二重櫓の後ろに大分市役所が見える



帯曲輪
城の中心部を囲うように細長く存在する
現在は広場のようになっている
桜が満開です



伊東マンショ
大友宗麟が欧米文化、宗教の留学に送った天正遣欧使節のうちの一人
フランシスコ・ザビエル
キリスト教布教のために日本に来日 九州各地で布教の後、大友宗麟の招きでこの地に滞在する



標高  
比高  
場所 大分県大分市荷揚町
最寄り駅 JR大分駅





    
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