北条五代



書きかけですが, 小田原城から独立しました



北条五代



後北条氏1代目北条早雲
四公六民を貫く,戦国大名最初の検地
伊豆奪取 小田原城乗っ取り
後北条氏2代目北条氏綱
戦国大名による独自の領国支配を確立
第1次河越合戦(扇谷,山内上杉連合軍vs氏綱,氏康)
姓を北条とし,鶴岡八幡宮を再建
後北条氏3代目北条氏康 甲駿相三国同盟
支城ネットワーク,検地,枡や貨幣の統一
第二次河越合戦
氏康傷が有名
第二次国府台
後北条氏4代目北条氏政 家康と武田征服に協力講和
対上杉籠城戦,対武田籠城戦,小田原征伐
後北条氏5代目北条氏直



北条早雲

出家前の名前は伊勢宗瑞  本名は伊勢新九郎長氏説,伊勢新九郎盛時説などあり 早雲は最初今川家の軍師であった
今川家当主義忠の死により,家督争いが起こったときには妥協案を出し,これを収める
また,その後,後見人の小鹿範満が増長したため,ついにこれを成敗し,氏親(今川義元の父)を当主につける.
この時の恩賞として興国寺城の城主となり,戦国大名としての道を歩み始める.
二本の大きな杉をネズミが根元から食い倒し,そのネズミが虎に変わるという夢を見て,二本の大きな杉は両上杉家,ネズミはねずみ年の早雲のことであると言ったという逸話がある

◇相模平定へ
◆伊豆侵入
そのころ,関東公方は力を持ち,もと関東管領といっていたのが公方と称し,将軍の命を聞かないほどになっていたため,足利義政は関東へ足利政知を送り込んだ.しかし,古河公方,足利成氏の力が強く,鎌倉に入れず,堀越にとどまり,堀越公方となった.
また,山内上杉顕定と扇谷上杉定正の両者も対立していた.
早雲は,堀越で政知の死後の後継者争いに乗じ,堀越御所を急襲,伊豆を奪取した.
◆西相模へ進出
その後,両上杉では,太田道灌の誅殺により,扇谷上杉の勢力が弱まり,山内上杉が台頭してきた.
早雲は小田原城主大森藤頼に近づき,小田原城を奪取.西相模をも手に入れた.
これについては, 贈り物攻撃をして大森藤頼を油断させ,鷹狩りと称して兵を伏せ,牛の角にたいまつをつけ, 混乱した小田原城を急襲して乗っ取ったという逸話は有名
早雲自身は終生韮山城にすむが
◆相模平定
両上杉が対早雲のため和解し,連合して攻めてきたため,早雲はこれに大敗した.そこで早雲は両上杉を謀略によって崩そうとした.扇谷上杉の重臣,三浦氏にしぼって攻めるのである.
果断速攻の攻撃により,まず居城岡崎城から追い出した.その後も攻撃を繰り返し,執拗に追い続けて4年,ついに新井城にて自刃に追い込んだ.
これにより相模平定が達成できた.
◇氏綱に家督を譲った翌年,永正十六年,88歳で大往生を遂げた

扇谷上杉 上杉定正
山内上杉 上杉顕定 謙信に関東管領を譲る憲政も同族

古河公方 足利成氏
堀越公方 足利政知


北条氏綱

早雲から家督相続を受けた.
対上杉,里見が氏綱の生涯である
◇上杉征服へ ◆太田資高の離反
上杉との対決に先立ち,古河公方と同盟を結び,扇谷上杉の重臣,太田資高(太田道灌の孫)の離反に成功させた.
上杉との対決
扇谷上杉朝興軍と氏綱が大永四年,高縄の原で激突した.この戦いで上杉は大敗し,江戸城に立てこもろうとしたが,太田資高が北条軍に内通したため,上杉軍は河越城まで逃亡する.
◆姓は北条
上杉を破った,この大永四年,氏綱は姓を伊勢から北条へ変えた
扇谷上杉と北条氏綱のにらみ合い
北条方の毛呂城が落ち,上杉方の岩付城を手に入れ,大永五年には4回の戦をしている.大永六年にはついに玉縄城まで攻められた.
この年には房総の里見氏も鎌倉一帯に火をつけて回り,鶴岡八幡宮も焼け落ちた.
◆国府台へ
天文七年の第一次国府台の戦いでは,足利義明,里見連合軍と戦い,勝利




北条氏康
北条氏綱の嫡男   正室は今川氏親の女

◇人物
◆氏康傷
勇猛で生涯で三十六回の合戦に臨んだが一度も敵に背を見せなかったという
身体に七箇所・顔に二箇所の刃傷があり,この傷は「氏康傷」と呼ばれた
◆氏政は?
ある時, 氏康は子氏政と食事をしていた
氏政はご飯少しにみそ汁をたくさんあわせて食べていたため, しまいにはご飯が残り,みそ汁がなくなってしまった
これを見た氏康は将たるもの, 兵の配分が大事である,ご飯とみそ汁の配分も均等に出来ないようでは北条家の行く末は暗い,と嘆いたとか
◇合戦
◆対足利
第一次国府台の戦いでは,父氏綱とともに足利義明,里見連合軍と戦い, 敵の総大将小弓公方足利義明を討ち取った
◆対今川義元
今川義元は関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定,足利晴氏らと連合し, 東駿河を奪還しに図る
このとき氏康は東西から挟み撃ちにあって窮地に至るが, 武田信玄の仲介で和睦に至り,窮地を脱する
河越夜戦
関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定,足利晴氏ら8万の大軍が北条領に進行し,川越城を包囲した
北条軍は1万以下の圧倒的に劣勢だった
猛攻に耐えられず, 北条側は河越城を開城すると足利側に伝える
しかし,北条に奪われた河越城を取り返したことで油断している足利勢に,北条側は夜討ちをかける
これにより足利側は混乱 上杉朝定は戦死し,上杉足利勢は敗走した
これにより扇谷上杉氏は滅亡 この後,も上杉足利を着々と攻略した
◇対謙信
永禄三年,上杉謙信は上杉憲政を奉じ,十万の大軍で関東へ進出
次々と城を落とし,最終的に氏康は小田原城に、綱成は玉縄城に籠城
一ヶ月近く包囲されることになるが,上杉軍は佐竹ら寄せ集めの軍であったため,長期の行軍を維持できず,また,武田信玄が川中島に海津城を完成させ, 進出をもくろんだため,上杉軍は包囲を解き退却した

◆第二次国府台
太田資正・康資・里見義弘が上杉謙信の南下に呼応
北条家を攻める
氏康はこの戦いで苦戦し遠山綱景ら有力武将を多く失ったが、夜襲で勝利を収める
◆謙信と同盟
今川氏真を攻めた信玄の行為を「甲・相・駿同盟の一方的な破棄」と罵り,上杉謙信と同盟する
◇57歳で中風にて死去。「謙信とは手切れし、再び信玄と協力せよ」と氏政に遺言  氏政はこの遺言に従っている。
  
氏邦
氏照 綱成
氏規




北条綱成

今川家家臣福島(くしま)正成の子?
父が戦死し,小田原に逃げ込んだところを氏綱に手厚い保護を受け,娘をめとらせ, 性も北条となった
北条五色備えでは黄備えを担当
常に戦場では先頭に立ち,八幡と書いた黄色の旗指物を指し,「勝った!勝ったぞ!」と叫びながら,敵陣に突入する猛将
玉縄城城主
河越城合戦では半年以上も籠城に耐え抜き, この功績で河越城主も兼任



北条氏政

家康と武田征服に協力講和
対上杉籠城戦,対武田籠城戦
小田原征伐



北条氏直



支城ネットワーク
中心小田原城
伊豆韮山城
多摩川以西小机城
武蔵南部江戸城






高野山にある後北条家代々の墓



    
↓その他本日おすすめの城

  
城一覧へ 国別検索へ 本陣(TOP)へ