前田利家,前田利長について 前田家
金沢城から独立しました


前田利家について

尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男
幼名犬千代
系図の上では菅原道真の子孫とされるが,信頼度は低い
若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、前田慶次郎に勝るとも劣らぬ派手な格好をした数奇者であった
女物の着物や毛皮などの派手な格好で、腰に赤鞘の太刀をぶら下げ、常に三間半の(7m)の朱槍を携えていたという
背に閻魔大王を描いた銀色の陣羽織が今も残っている

清洲織田氏,織田信友と信長の間に起こった萱津の戦いに初陣
首級ひとつを挙げる功を立てる(村井重頼覚書)
この戦いでは、目立つ様、自ら朱色に塗った上記の三間半柄の槍を持って、信長に賞賛された
弘治二年(一五五六)の信長と、弟の織田信勝(信行)の織田家家督争い,稲生原の戦いでは、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも,顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井本人を討ち取る功を立てた
これにより禄百貫を加増され、少年村井長頼を召し抱えた
なお,この後,前田利家は隻眼になったという説もある
永禄初年頃に新設された母衣衆(信長の親衛隊,直属精鋭部隊,信長の伝令をつとめた)の赤母衣衆筆頭に抜擢された
さらに同年、従妹であるまつ(芳春院)を正妻に迎えた
順調に出世街道を上っていたその矢先、同朋衆の拾阿弥を刀の笄を盗んだとして,信長の目の前で拾阿弥を斬殺した
信長が利家を切り捨てようとしたが、柴田勝家森可成らがを信長引き留め,命を拾った
この後出仕停止処分となり,出奔(浪人の2年間、信長は利家が信用できるか見極めていたとも)
永禄三年(一五六〇)の桶狭間では、出仕停止中に、信長に無断で桶狭間の戦いに参加して朝の合戦で首一つ、本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てた
翌年の森部の戦いにも無断参戦,「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛なる豪傑を討ち取る功績を挙げた
これらの戦功が認められ、信長から三〇〇貫(四五〇貫文)の加増を受け、ようやく帰参を許された『信長公記』
帰参後,利家の浪人中に父は死去、前田家の家督は兄が継いでいたが、利家は信長から突如、兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じられる
この時同時に前田慶次郎利益は養父とともに荒子城から退去
以後,慶次郎は利家に恨みを抱き続けたと言うが本当か
元亀元年(一五七〇)には今日へ進撃中の織田軍を浅井氏・朝倉氏に背後を絶たれる危機となった金ヶ崎の戦いでは,撤退する信長の警護を担当し、織田,徳川軍と浅井,朝倉軍が大激突した姉川の戦いでは浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げる
同年の対石山本願寺戦で,本願寺側に奇襲をかけられ,退却した春日井堤の戦いでは,退却する味方の中でひとり踏みとどまって敵を倒す功績を上げる
天正元年(一五七三)の一乗谷城攻め、天正二年(一五七四)の長島一向一揆、天正三年(一五七五),長篠の戦いなどで,佐々成政塙直政(原田直政)らと共に鉄砲隊として参戦
長篠の戦いでは撤退する武田軍を追撃している際に、弓削左衛門なる者に右足を深く切り込まれる重傷を負い、危うく命を獲られそうになった所を家臣の村井長頼に助けられ一命を得た
また,柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事した
越前一向一揆平定後、佐々成政不破光治とともに府中十万石を与えられ,「府中三人衆」と呼ばれるようになる(三人あわせて十万石)
これらの戦で,信長から「今にはじまらず比類なき槍」「日本無双の槍」「堤の上の槍」と称えられている
これまでは,一武将として戦功をあげるのみであったが,天正九年(一五八一)、織田信長より能登一国を与えられ、やっと七尾城主となり二十三万石を領有する大名となった
天正十年(一五八二)の本能寺の変で、利家は柴田勝家と、上杉景勝軍の籠る越中魚津城を攻略中であった
清洲会議で秀吉と勝家が対立すると,利家は勝家の与力でもあり、かねてから旧交があった秀吉とどちらにするか苦しんだ
天正十一年(一五八三)の賤ヶ岳の戦いでは、利家は五〇〇〇の兵で柴田側で参戦するも合戦のたけなわで突然撤退
羽柴軍は大勝,丹羽長秀が没したのち,前田家は秀吉政権下の重要な位置を占めるようになってきた 秀吉と共に利家も健康の衰えを見せ始めるも,隠居は許されず、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より五大老の一人,しかも家康と並ぶ大老の上首の地位であった

また,利家は政治面でも優れ,前田家の家系はすべて自身でやりくりしており、戦の時も懐に常に愛用の算盤を入れていたとか(本当だろうか?)
ともかく,愛用の算盤が家宝として残っている(算盤は当時に日本に伝わったばかり)


前田利長について

前田利長は利家の長男
信長,秀吉に仕え,利家から家督を譲られ,正式な前田家当主であった
しかし,利家死後,すぐに上方を離れ,金沢に戻ったとして家康から謀反の嫌疑がかかる
利長は最初抗戦派であったが,援護してくれる大名がおらず,まつが自ら人質として江戸へ出向くことでことを得た
関ヶ原の折,前田家は利長,利家の次男前田利政とともに東軍についていたが,利政は全く動かず,利長は大聖寺城,小松城をおとした
これは,関ヶ原で真田家など諸大名がしたように,どちらが勝ってもお家は安泰というのを狙ったとも考えられる
利長は丹羽長重とも交戦したこともあり,評価され,加賀,能登あわせて百二十万石となった
逆に利政は所領没収で利長の食客となり,後に復帰の話が出るも辞退し,一生を終えた




近くには前田土佐守家屋敷跡,金沢市老舗記念館,兼六園,能楽堂,三十間長屋,尾山神社(初代藩主前田利家公を祀る神社),懐華楼,志摩(古い茶屋の建物)など歴史スポットには困らない
前田土佐守家とは八家のうちのひとつ, 八家とは,本多家,長家,横山家,前田土佐の守家,奥村家,村井家,奥村丹波の守家,前田美作の守家という加賀藩のトップ8






    
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