那古野城 , 名古屋城 織田家徳川家


那古野城
那古野城は 今川氏親(今川義元の父) が尾張進出のために,建てた城であるが, 連歌にのめり込み, 連歌に強かった信秀と意気投合してしまった.
信秀を呼ぶための御殿まで建て, 信秀を呼んだが, 信秀は城下に兵を隠し, 中の信秀の合図で一斉に乱入し, 氏親を追い出した. (天文七年説が有力)

その後, 信長は清洲乗っ取りに功のあった叔父の 織田信光 を入れる. 2ケ月後の信光の急死は信長が謀殺したとか.→詳細は清洲城
信長は清洲城に移り, そのあたりから廃城となる

現在の名古屋城二の丸付近にあったという


名古屋城

慶長5年(一六〇〇), 関ケ原に大勝した徳川家康は大坂攻略のための拠点として, 那古野に城を築くことに決めた.
清洲城は規模が小さく, 水害の恐れがあったためである.
西国の大名を動員し(逆心無きを示すため), 2,3年で完成した.

元和二年(一六一五)に, 家康の九男 義直 が入城し, ここから尾張徳川家が始まる.
兵法指南には 柳生兵庫介利巌 が選ばれ, 尾張柳生 はここから始まる.

八代将軍吉宗 に対抗して名高い 尾張宗春 は第6代藩主である.
宗春の兄が吉宗との将軍就任戦に敗れたこともあり, 常に吉宗の政策に反対してきた.
吉原通いをし, 質素倹約令に反対して, 城下に遊郭や芝居小屋を許可. 名古屋の商業の発展につながるが, 吉宗より蟄居謹慎を命ぜられた.
吉宗に破れた 宗春 以来, 尾張藩は幕府に対抗意識を持っていた. それが幕末の熱心な勤王運動につながる.

また,26年8ケ月もの間, 毎日日記をつけ続けた朝日文左衛門も尾張の人である.

有名な尾張忍び駕籠は後ほど


左上 東門
右上 二の丸東庭園 南池 名勝
左下 埋御門
藩主はいざという時, ここから堀に降り, お土居下へ向かう.お土居下には有名な尾張忍び駕籠があり, お土居下同心が, 木曽路へ逃亡するよう決められていた.
その, 堀に降りるための門
右下 表二の門 大手枡形 重文


埋め門とは一般に石垣の下にある門のことを指す


左上 本丸 東南隅櫓
辰巳門とも 表二の門の東にあり,築城当時のまま(太平洋戦争で焼けてない) 重文
右上 表二の門
左下 本丸御殿跡 現在復元のための募金を募っている
右下 大天守と小天守



左上 本丸東北隅櫓跡
戦前国宝だったが空襲で消失 石垣のみ
右上 不明門と御殿椿
これも埋め門 御深井(おふけ)から天守へ直に至る門で,普段は厳重に閉ざされていて,「開かずの門」といわれた.
御殿椿は尾張藩秘蔵の椿
左下 尾張忍び駕籠?
右下 大天守から名古屋駅方向を見る



左上 御深井西北櫓
西北三重櫓,戌亥門,清洲櫓ともいい清洲城小天守を移したものとか
左下 大天守
右下 本丸西南隅櫓
未申門ともいい床落ち狭間(石落とし)が特徴 重文 現在のは濃尾地震後に修復されたもの



右上 正門
明治四十四年 旧江戸城蓮池門をうつした
現在のは戦災後再建したもの








標高
比高
場所 名古屋市中区本丸
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最寄り駅 地下鉄名城線市役所前駅



    
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