小谷城 浅井氏


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浅井氏 三代の城である.(ちなみに,アザイ)

浅井氏初代浅井亮政が京極氏から独立し, 上坂氏を追い落として建てたのが小谷城のはじまりであった
亮政が建てた当時は大獄を中心とした小規模なモノだったらしい
しかし, 浅井亮政は六角定頼としばしば戦い,そのころに,本丸,京極丸と峰に沿って広げていった
天文十一年,亮政の死により家督は浅井久政
永禄三年,久政は浅井長政へ家督を譲った
永禄十年,浅井長政は,織田信長の妹お市の方と婚姻し,織田と浅井の同盟を結んで,信長の上洛を助けた
これは亮政の代からの浅井朝倉同盟からすると,かなり衝撃的なことである
織田と朝倉は昔からの天敵であり,この婚儀にも多くの反対があったらしい
存外,浅井にしてみれば宿敵六角を討ってくれたらそれで良かったのかも知れない

ともかく,元亀元年(一五七〇)四月の朝倉攻めの際,不意に長政は信長に反旗を翻した
この時,信長が金ヶアですんでのところで浅井朝倉に挟撃されるピンチであった
元亀元年(一五七〇)六月には姉川の戦いで浅井朝倉と織田徳川軍は衝突した
最終的に元亀三年八月に信長は浅井を滅ぼした
浅井を滅ぼした後,北近江に入った秀吉は,山城の小谷を捨て,資材は長浜城に活用された



足利義昭追放後,天正元年に小谷城へ出兵し,小谷城の背後の山田山に布陣
小谷城の背後にあるの大獄城を攻め始めた
大獄城は本丸よりも高所にあり,急峻なため,本丸を経由しないと落ちないはずであった
しかし,信長は小谷城の堅固さを知っており,浅井対馬()を寝返らせることに成功
信忠に虎御前山を守らせ自ら,風雨の夜に急襲し大獄城を落とした
その後,信長は援軍に来ていて,大獄城が落ちたと聞いて,田上山から逃亡する朝倉氏を追撃
敦賀まで十一里の道のりを追撃し続けた


城の構造

日本五大山城の一つ(七尾城, 春日山城, 小谷城, 観音寺城, 月山冨田城)

尾根筋に曲輪を配備  本丸は背後に巨大な堀切をもうけ,尾根伝いの移動を遮断している
大獄,本丸,山崎丸の大きく三つの曲輪がコの字になっている  大獄は詰め,コの字の間にある清水谷が平時の居住空間である
言葉ではなかなか説明しづらい,難攻不落の山城



大獄,本丸,山崎丸をすべて1回で回るのは不可能です



左上
右上 番所
左下 御茶屋跡
右下 御馬屋


左上
右上 虎ヶ谷道
下 姉川古戦場跡



   






標高 495m 
比高 230m 
場所 滋賀県東浅井群湖北町伊部
最寄り駅