長浜城





天正元年(1573 =元亀4年), 8/26の浅井家滅亡の功績(小谷城攻め一番乗りなど)により , 木下秀吉に浅井旧領の支配を任された.
秀吉は, 小谷城, 横山城には入らず, 当時今浜と呼ばれたこの地に城を築く.
今浜は琵琶湖の浜であり, 港に近いという場所柄を利用してである.
秀吉は入城し, ここ今浜の名称を長浜に変えるとともに, 自身も性を羽柴にかえた.
(丹羽+柴田 説があるが, 橋場 を名字にしたのである. 具体的には墨俣とか(以上 西ケ谷氏説))
当然旧浅井領であり,長浜町衆も多少の抵抗もあったが, 年貢免除などの策により秀吉との仲は急速に接近し, 秀吉も郷里(さと)とよんでいる.

本能寺の変後, 清洲会議で柴田勝家の甥の勝豊のものになるが, 賤ケ岳で秀吉が取り返し, 山内一豊(読みは正しくは "かつとよ" なそうな)に与えている.
関ケ原後, 内藤信成が城主となり, その子信正が跡を継いだが, 彦根城建設のため廃城となり, 資材は持ち去られた.


大河ドラマに合わせ, 城主として羽柴秀吉より山内一豊に注目し, 一豊とちよ展を開いている.
意外に思ったけど,実は城主期間は11年と長かったり.

一応, 一豊の概略を書いておきます.

長浜城主
羽柴秀吉 天正元年(1573)〜清洲会議(天正十年)
柴田勝豊 天正十年(1582)〜
山内一豊 天正13年(1585)〜
内藤信成,信正 慶長11年(1606)〜元和元年(1615)


城の構造
坂本城, 安土城, 大溝城とでつくる, 琵琶湖城郭ネットワークの1つ.
他の3つにもれず, いわゆる"水城"である. 外堀にも外外堀, 内外堀の2つあり, さらに内堀もある.
本丸天守は現在の長浜城の建物の北西の秀吉像のあたり, ちょっと高い土地.
現在の建物は清洲城と同じ "観光城" であるが, 長浜城の本来の姿について記録も全く残っていないので,当時らしく建てたらしい.
ただこういう観光城が, 城の人気を高めるのに役立っていることを考えると別に悪くないと思う.
城郭体系』の頃には, 観光城もなく, 城の構造さえわかっていなかったのが, 今では水城の三重堀で, 推定図まで書けるようになったのだから, "人気"も大事ではないだろうか.

遺構としては, 太閤井戸(建物のはるか西の湖岸), 天守台跡(建物の北西), 大通寺台所門, 知善院山門 などがある.



長浜城下で鷹狩りをしていた秀吉が
光成の屋敷に立ち寄り, 茶をくれと
言った
光成は一杯目は冷たいお茶を一杯,
次にぬるいお茶を半分,
最後に熱いお茶を少々入れて差し出した
このことを秀吉は褒め称え,
光成を召し抱えるようになったとか


標高  
比高  
場所 滋賀県長浜市公園町
最寄り駅 JR東海道本線長浜駅