真田丸



関ヶ原の戦いで徳川秀忠軍を足止めした真田昌幸、幸村父子
西軍敗北を受けて紀州の九度山に幽閉されていた
しかし、大坂冬の陣にあたり、雷雨の夜に密かに脱出 出城を築き大いに徳川軍を苦しめた
しかし、冬の陣後の和平で外堀を埋められる
夏の陣の際に三方は川に囲まれているが、南だけ防御が手薄なことに着目 真田丸を築いた
徳川勢を誘い込んで一斉射撃を浴びせたりと大いに苦しめたが、伊達政宗鉄砲騎馬隊に、猛将後藤又兵衛が討ち取られると自ら城を出陣
伊達政宗鉄砲騎馬隊へは、地面に低く身をかがめつつ進軍することで逆に撃退
そのままの勢いで徳川本陣へと攻め込んだ
しかし、あと一歩のところで力及ばず
次々十勇士達が討ち取られ、さなだ松(現在の安居神社)にもたれかかっているところを討ち取られた


城の構造

築城してから1ヶ月ほどで冬の陣後の講和条件として埋め立てられてしまったため、場所も形状もいままではっきりと解明されていなかった
真田丸は大阪城の南端に半円形の形で作られていたというのが従来説であった
近年、真田丸は東西200mほどの大きさで、大阪城との間には崖があり、土橋でつながってはいたが実は離れた孤立した城だったという説である
また、場所については心眼寺向かいの明星高校の場所であったと推定されている


心眼寺

真田信繁の冥福を祈るために建てられた寺
真田丸の一部であったと推定される
境内内には真田信繁が休息の際にもたれかかったとされる真田幸村鎧掛けの松もあったが第二次大戦で消失してしまったらしい
二〇一四年、信繁四百回忌に、真田信繁の墓碑が建立された
江戸時代は徳川へ刃向かったため、墓すら建てることが許されなかったらしい
また、真田信繁の墓の近くには坂本龍馬暗殺の実行犯と推定されているうちの京都見廻組の桂早之助と渡邊吉太郎の墓もある






三光神社

大坂の陣の際に真田信繁がここまでの抜け穴を掘ったといわれる穴が、社殿の下に残っている


心眼寺

真田信繁の冥福を祈るために建てられた寺
真田丸の一部であったと推定される
境内内には真田信繁が休息の際にもたれかかったとされる真田幸村鎧掛けの松もあったが第二次大戦で消失してしまったらしい
二〇一四年、信繁四百回忌に、真田信繁の墓碑が建立された
江戸時代は徳川へ刃向かったため、墓すら建てることが許されなかったらしい



真田丸のイメージ図 真田丸は大阪城の南端に半円形の形で作られていたというのが従来説
近年、真田丸と大阪城との間には崖があり、実は大阪城とは離れた孤立した城だったという説もある

標高
比高
場所 三光神社:大阪府大阪市天王寺区玉造本町14−90 宰相山公園内     
心眼寺:大阪府大阪市天王寺区餌差町

    
最寄り駅 JR、地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅




    
↓その他本日おすすめの城

  
城一覧へ 国別検索へ 本陣(TOP)へ