鹿児島城(鶴丸城)

屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったため、「鶴丸城」と呼ばれる
県史跡
南北朝時代には上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡された
島津家久は城山を利用し、麓に館を建てたが、「人をもって城と成す」という精神に基づき、どちらかというと中世の山城のようであり、天守閣もなく、島津七十七万石の城としては簡素な代物であった
また島津氏は領内に十三の山城を配備し、そのネットワークでの防備を選択した


初代の城代として島津歳久の孫常久が任命されて居住していたが、常久が早世した後は城山自体が聖域として立入禁止となった
一六〇〇年の関ヶ原の戦いで島津氏は西軍に属して敗北
家久の機転で島津家がなんとか本領安堵となった後も,徳川家康による島津征伐を懸念し、鶴丸城を築城した
島津義弘は海岸に近いこの地は防御面で、城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた
実際に幕末の薩英戦争の時にはイギリス軍艦から砲撃を受けている


城の構造

本丸、二の丸ともの整備され、なだらかな土地になっている
お決まりのように本丸には黎明館(資料館)二の丸にはには図書館という箱物が建てられている
正直残っているのは本丸と二の丸の土地の土台のみ
西郷隆盛篤姫でもり立てており、史跡に困らないためまあまあ楽しめるが、城自体はほとんど残ってないに等しい
正直なぜ百名城に入ったのか不明


島津家久(忠恒)について

島津義弘の三男
和歌・連歌・茶の湯を嗜み、剣術は東郷重位(「ちぇすとー」と叫び豪腕の一撃を振り下ろす薩南示現流の祖)に学んだ
後継者となる前は、蹴鞠と酒色に夢中であったが、秀吉に後継者と認められると武勇の才を発揮し、慶長の役では、わずかな兵で明軍数万を破っている(泗川の戦い)
天正十二年(一五八四)には沖田畷の戦いで肥前で急速に勢力を伸ばしてきた龍造寺隆信を打ち破り、総大将隆信が戦死するという事態となった
慶長七年(一六〇二)の関ヶ原の戦いでは父の義弘が西軍に属したため、講和交渉をしていた伯父の義久に代わり、徳川家康に謝罪のために上洛
島津家の本領を安堵された
徳川家康から偏諱を受け、家久と名乗る
その後、琉球に出兵し、占領して属国としたり、明とも密貿易を執り行い、鹿児島城(鶴丸城)を築き、城下町を整備したり、薩摩藩の基礎を固めた
残酷な性格であったと伝わる


島津四兄弟
島津義久
祖父から「三州の総大将たるの材徳自ら備わり」と評された
島津家の当主として耳川の戦い沖田畷の戦い等で着実に島津家を拡大していった
秀吉の九州征伐に対し、一度は勝利するものの、大軍を送り込んでくる秀吉軍に叶わず敗北
その後、歳久の自害というかたちで、島津家は安泰となった
秀吉はあえて島津家を分割させる目的で弟の義弘を優遇した
島津義弘
島津義弘は島津貴久の次男
祖父忠良から「雄武英略をもって他に傑出する」といわれた
岩剣城で初陣を飾って以降、耳川の戦いを始め、対伊東、対大友戦で武功をあげた
天正十五年の豊臣秀吉の九州征伐でも奮戦したが、寡兵叶わず敗北した
しかし歳久の自刃という犠牲を払って豊臣家は所領を安堵される
その後の朝鮮出兵でも獅子奮迅の働きで、元均李舜臣を討ち取る
関ヶ原では西軍に着くも、十分な働きができないまま敗走となり、命からがら逃げ延びた
戦後は福島正則の仲介もあり、家康も島津家の強大な兵力を恐れ、本領安堵となった
その後,秀吉はあえて島津家を分割させる目的で弟の義弘を優遇した
JR伊集院駅前には馬上で躍動する像がある

島津歳久
島津 歳久は島津貴久の三男で、日置家の祖
祖父の忠良から「始終の利害を察するの智計並びなく」と言われた
主に兄義久の傍らで軍師として活躍
また島津家の多くの合戦に参加した
しかし、豊臣の天下となり、島津家もその机下に入らざるを得なくなり、その過程で打倒豊臣を掲げる家臣たちが起こした梅北一揆によって島津家の一切の責任を背負う形で自害した
後に彼の死をしのんで、心丘公崇拝につながっていく
島津家久
祖父忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評された
耳川の戦いで大友氏が衰退した後九州では龍造寺家が台頭してきた
有馬晴信をせめる龍造寺軍と有馬家を救援すべく派遣した、島津家が沖田畷の地で激突した
この時の総大将が家久
倍以上いる龍造寺軍に対し,家久は釣り野伏と呼ばれる戦法で勝利
大将の龍造寺隆信を討ち取った
その後,衰退する大友家が、秀吉に援軍を要請し、秀吉は援軍を派遣するが、家久は迎え撃ち、長宗我部信親十河存保ら名将を討ち取った
その後家久は、豊臣家と島津家が講話するか否かという渦中のなかで原因不明の急死をする






後ろにそびえる山が城山
結構高い
城の大手門
本丸内
左の建物が黎明館(資料館)、後ろの山が城山
本丸の上から見ても高い
本丸より少し低い高さの二の丸
二の丸の箱物には図書館
麒麟の間(御殿)の跡地 御隅櫓跡


本丸跡にある篤姫の像 鹿児島城より西側にある西郷隆盛の像
超巨大
島津忠義の像
照国神社内には島津斉彬、久光、忠義の3人の像がある
小松帯刀の像
鹿児島中央駅前の維新志士の像



城山から見た鹿児島市内
左にうっすら見える島が桜島です



仙厳園の入り口 島津が徳川に対抗するために作った日本最初の工場
標高  
比高  
場所 鹿児島県鹿児島市城山
最寄り駅