和歌山城 徳川家


和歌山城は天正十三年(一五八五), 豊臣秀長(秀吉の異母弟)が,紀州征伐の功を表され,和泉,紀州を賜り,和歌山の地に築城を開始したことに始まる
普請奉行は藤堂高虎である
しかし,秀長は,四国征伐で長宗我部元親を降した功をたたえられ,大和国も加増となったため,和歌山城の完成を見ずに,大和郡山に移転になる
秀長の後は秀長家臣の桑山重晴が入城し,築城を進めた
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原で浅野幸長が池田輝政とともに岐阜城を攻め,その功で戦後,紀伊国三十七万石を賜り和歌山城に入った
浅野氏は整備を進めた
元和五年(一六一九)浅野氏は安芸国広島へ移封され,徳川家康の第十子徳川頼宣が五十五万五千石を領し,御三家の一つとなって入城
頼宣は最初は将軍家を狙おうという野心満々であったが,入城の才に数々の見張り役としてともに入城した家臣た多数おり,牧野兵庫頭事件,由井正雪の乱で謀反の嫌疑がかかり,10年間江戸にて謹慎させられたため,野心なくなり,紀州国の主として代々幕末を迎える
紀州から輩出された将軍は第八代将軍徳川吉宗である

徳川吉宗について
吉宗は第二代藩主光貞の四男として生まれ,若い頃はもはや家督を次ぐ予定すらなく,気ままに過ごしていたようであるが,兄たちの急な夭逝により紀州藩第五代藩主となる
その後,まもなく,第七代将軍家継の急死に当たり,吉宗は第八代将軍に大抜擢された
御三家当主が将軍職に就いた際,館林藩,甲府徳川家等,その藩は廃藩になるのが例であったが,吉宗は紀州が神君家康公から拝領した土地であるとして, 主従二十人足らずで就任したため, 紀州藩は存続することが出来た
将軍就任後は享保の改革という改革を実行
自身も木綿の着物を着て,質素倹約令を徹底し,目安箱,小石川養生所,江戸町火消し制度などを整えたことが有名
享保の改革では, 縁戚政治になっていた新井白石を退け, 水野忠邦を老中に起用 そのほか名奉行大岡越前守忠相の登用などがある
ちなみに,尾張藩徳川宗春は吉宗との第八代将軍の座の争いに敗れたこともあり,吉宗の質素倹約令に反発し,尾張だけは華美なものを奨励し,また遊郭なども公認した
これが今の名古屋でも開放的な理由とか・・・
吉宗は引退後も大御所として実権を握り続け, 田安,一橋,清水家の御三卿を制定した

他に紀州に関係のある有名人として安藤帯刀直次(歴戦の猛将にて家康の側近,頼宣へ政策助言をした)華岡青洲(通仙散を開発し,世界で初めて麻酔で乳がんの手術をした医者),南方熊楠(語学の天才で,明治に英国に渡り帰国後は紀伊田辺にて菌類学,博物学,民俗学になお残すほどの業績を残した多才な人物),陸奥宗光(海援隊に入り幕末動乱に疾走し,維新後は外交官となって不平等条約の改正に尽力した)などがいる
城内の展示物も豪華で,槍も水心子正次,国重,河内守国助といった名槍である
周囲には根来寺,雑賀城,紀三井寺,太田城,護国神社など歴史スポットに事欠かない



    
伏虎像 和歌山城は虎伏山の頂上に建てられているため,別名虎伏城と呼ばれる
その別名にちなんで昭和三四年に建てられた
 和歌山県出身の作家有吉佐和子の『紀ノ川』にも登場する

大手門と一の橋


追廻門 馬術の稽古場があった 築城当時から朱色だったという 岡口門 重文


砂の丸 二の丸御殿(があった)


鶴の渓(たに)
浅野幸長がここで鶴を飼っていたのでこの名がある
二の丸御殿,砂の丸につながる



二の丸庭園 二の丸庭園から見た和歌山城












標高 49m
比高
住所 和歌山県和歌山市1
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最寄り駅 JR紀勢本線和歌山駅, 南海本線和歌山市駅

    
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