柳生屋敷跡
柳生ドットコム
、
柳生観光協会
に詳しい
柳生姓は南北朝の頃から始まったとされるが定かでない
柳生石舟斎宗厳
は、戦国期に、旧長野家家臣にして
新陰流
の祖
上泉伊勢守信綱
から新陰流を相伝され、柳生新陰流を生み出した
宗厳は
松永久秀
に仕えたが、その久秀が織田信長と争って滅亡し、代わって大和を守護した
筒井順慶
には臣従しなかった
あくまで一土豪として中立を貫き、豊臣の太閤検地等で所領没収もされたりしたが、
徳川家康
と出会い、
無刀取り
を披露し、徳川家兵法指南役につく
このことが柳生一族の転帰となった
宗厳は高齢だったため、実際は子の
柳生但馬守宗矩
を指南役としてつけたが、自身は家康の相談役として重要な位置に立った
同時期に
小野派一刀流
の祖
小野忠明
も兵法指南役候補となっていたが、一介の剣術家より、小規模ながら柳生の谷の領主でもあった石舟斎の方が気が合ったのであろうか
柳生宗矩
は家康から二代将軍
徳川秀忠
、三代
徳川家光
の兵法指南役として指南をし、大坂夏の陣では秀忠を警護し、7人の武者を切り伏せたという
しかし、宗矩は、将軍家の兵法指南というブランド名で、各大名家に柳生の弟子達が兵法指南として仕官される裏で、各大名家の内情を探り、弱みを握ることで力を強めていったという見方が多い
柳生十兵衛三厳
が諸国を流浪したのもこの時期であり、それ故十兵衛隠密説が創作としてしばしば語り継がれるのである
宗矩の代に加増され、一土豪から一万石の大名に昇格した
宗矩以降、柳生藩の藩主として明治まで存続し、維新後は子爵を授けられた
柳生屋敷は
柳生宗矩
が、芳徳寺の後に3年の歳月をかけて建てた
その子
柳生宗冬
が増築したが、火災で焼失
その後は仮建築のままで、明治維新とともに廃止となった
柳生藩家老屋敷
柳生藩の財政立て直しを行った家老小山田主鈴の旧屋敷
石垣には天保12年(1841年)尾張石工が築いたと刻まれている
館内には資料が展示されている
近年は歴史小説の大家、
山岡荘八
が所持し、柳生一族を題材とした歴史小説
「春の坂道」
の構想を練ったという
芳徳寺
柳生家の菩提寺
寛永一五年(一六三八)
柳生宗矩
が、柳生新陰流の祖である
柳生石舟斎宗厳
の供養のため創建した
開山は宗矩と親交のあった
沢庵和尚
本尊の両脇に柳生但馬守宗矩座像、沢庵和尚座像、列堂和尚義仙像(宗矩の四男)が安置されている
北側には柳生家歴代の墓所がある
柳生十兵衛解説ページ
もどうぞ
柳生一族系図
柳生石舟斎(宗厳)
┯ 柳生厳勝 ━
柳生兵庫助利厳
━ 連也斎
┗
柳生但馬守宗矩
┯
柳生十兵衛三巌
┠ 柳生友矩
┠ 柳生宗冬
┗ 柳生烈堂義仙
柳生藩家老屋敷
柳生藩家老小山田主鈴の屋敷
山岡荘八
が所持し、「春の坂道」の構想を練ったという
旧柳生藩屋敷跡です
芳徳寺
柳生一族の墓 芳徳寺内にある
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