吉田郡山城 毛利家



毛利家代々の城であり,毛利元就の本拠地である
毛利氏は鎌倉時代の重臣大江広元の四男が安芸国吉田荘の領地を得たことに始まる
相模国毛利荘を失った後,越後を経て吉田荘の郡山城を本拠地とした
毛利元就は毛利弘元と福原広俊女との間に次男として生まれた
父,母とも早くに亡くなり,兄興元が家督相続後には家臣にも城を負われ,弘元室の杉大方になんとか養われていた
しかし,兄興元が急死,家中が動揺する中,家督を相続し,混乱につけ込んで攻め込んできた安芸国守護,佐東銀山城主・武田元繁初陣にて討ち取った(永正十三年(一五一六)有田城合戦,西国の桶狭間と呼ばれる)
この頃の毛利氏は東の尼子,西の大内に挟まれた小豪族の1つであり,はじめは尼子の傘下に入っていた元就は大内に寝返り,領地を拡大し,着実に力をつけていった
天文九年(一五四〇)には尼子晴久が三万の大軍をもって侵攻したが、毛利軍は八千で立て籠もり持ちこたえ、翌年敗退させた
この戦いで毛利氏は大内家臣の中心的存在となった
しかし,大内氏が尼子氏の月山富田城に攻め込むも大敗
元就も必死の退却となり,この後急速に大内氏は衰えていく
元就はこれを機に吉川氏,小早川氏に次男,三男を養子にいれ,毛利両川体勢を確立しようとした(吉川元春,小早川隆景)
大内義隆はほどなくして家臣の陶晴賢に殺害されるが,元就はこれと厳島合戦にて対決
数では圧倒的に不利であったが,謀略にて弱体化を謀り,また村上武吉らの協力もあり,陶晴賢を破り,西国の覇者としての地位を確立した
この戦いは日本三大奇襲戦の1つに数えられている
その後は,石見銀山を奪い,尼子復興を願う山中鹿之助幸盛らを返り討ちにし,北九州や近畿への進出をもくろみながら死去した
なお,元就長男の隆元は謀殺されたため,孫の輝元がすでに家督を引き継いでいる
この頃になると,毛利氏は天下統一を目指す織田信長と全面的に衝突しており,これをうけて天正十九年(一五九一)に輝元は山間部の城では不利と判断し,吉田郡山城を廃城
広島城を築城した
毛利両川体制
毛利元就 吉田郡山城
吉川元春
小倉山城
小早川隆景 三原城







城の構造

郡山全域を城郭とした,径1kmにも及ぶ大規模な山城で,郡山北流する可愛川と、それに注ぐ多冶比川合流点の北側に位置する
築城は南北朝時代であるが、毛利元就が城郭化、輝元が改修を加えた
島原の乱後,安芸切支丹による利用が懸念され,建物、石垣とも取り壊された
遺構として、本丸、二の丸、三の丸、などの曲輪や,堀,石垣土塁が残る

吉田山は「少年自然の家」の裏
なお, アクセスにはバス停吉田町役場前というのがあるが,そこにいくバスはほとんどなく,また最短の駅までも10kmあり,車でないと行くのは不可能かと・・・

麓には資料館もある



標高 390m
比高 190m
場所 広島県安芸高田市吉田町吉田
アクセス 広島駅から40km




左上
右上
左下
右下

左上 洞春寺
右上
左下 毛利元就の墓
右下 毛利元就の墓

百万一心の碑

左上 左の丘が本丸
右上 二の丸
左下 三の丸
右下 本丸



元就の火葬場跡 隆元(元就の長男)の墓所 毛利一族の墓所 勢溜の壇跡


    
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