岐阜城 斎藤家織田家



建仁年間に二階堂行政が建てたのが始まり
地名をとって稲葉山氏と名乗り, 稲葉山城と名付けた
応永十九年(一四一二)土岐氏の執権斎藤利永が修理したが, すぐに移動し, 天文八年(一五三九)に斎藤利政(道三)が修理するまで百年あまりは空きであった
応仁の乱が始まり, ここでも土岐家の跡目争いに斎藤家が関わる戦国時代となった

ここにあってのし上がっていったのが斎藤道三である
道三は国盗り物語などで一介の油商人から美濃国当主にまでのし上がったとされるが, 油売り商人(?)として京から美濃に移ってきたのは, 道三の父であり, 成り上がりの前半生は父の成果という説もあり, 不明である
ここに一応書いておく
道三は稲葉山城主斎藤長張(長井長弘?)に推され, 鷺山城主土岐頼芸につかえる
このときは松波庄五郎といった
長井家の家来西村氏に跡継ぎが絶えると, 道三は跡を継ぎ, 西村勘九郎となのった
次ぎに,頼芸の兄政頼を追い, 頼芸に正式に守護土岐家を継がせた
その後は長井長弘を殺し, 長井新九郎規秀と改名 守護代斎藤家が絶えると斎藤左近大夫利政と名乗った(秀竜ともいい, 晩年出家して山城守道三となった) この時, 稲葉山の城を修理し, 自らの居城とした
享禄十年には土岐頼芸をこれを追って追放し, 名実ともに美濃の主となった(土岐頼芸は織田家へ)
しかし, 晩年自らを三芳野と土岐頼芸の子と信じ込んだ道三の子義龍に城下を追われ, 鷺山城に逃げ込む
道三側につく家臣も少なく, ついには長良川の戦いで全面対決し, 道三は戦死するが, このとき道三は, 会見で娘婿で惚れ込んだ信長に美濃国をゆずるという遺言を残した

義龍は信長側の攻撃をよく防いだが, 年に病死
子の龍興(十四才)の代に, ついに,秀吉の出世の糸口で有名な墨俣一夜城を築かれ, 竹中重治の主従数人による数日の乗っ取り, 美濃三人衆(稲葉一鉄(よしみち) 安藤盛就, 氏家卜全)らの離反によりついに永禄七年,わずか3日で落城
信長は稲葉山に入城, 中国の故事で周の文王が岐によって国を平定したという故事に乗っ取り, 岐阜城, 井之口を岐阜と改めた
以後安土城を築くまで信長の天下平定の拠点となる
安土城築城後は子であり,後々家督を継がすつもりだったであろう信忠に譲られた
しかし, 岐阜城主信忠は本能寺の変の時二条城に滞在していて, 岐阜城に籠城しようとしたがかなわず, 二条城で光秀に殺される
その後の清洲会議で岐阜城主は三男信孝となったが, 秀吉にも見放され自刃(秀吉+三男信孝 vs 家康+次男信雄)
秀吉は岐阜城には池田信輝(恒興), 元助を入れた
小牧長久手で池田父子が中入りが失敗し討ち死にすると, 池田輝政が六年間在城した
小田原征伐のあと, 輝政は三河吉田に移動 秀吉の養子秀勝が城主となった
秀勝は朝鮮の役で病没
織田秀信(信忠の子 岐阜中納言と呼ばれる)が入城した
関ヶ原の前哨戦として有名な, 岐阜城の戦いでは池田輝政,は東軍側となり福島正則, 浅野幸長とともに, 西軍に与した織田秀信を攻めた
秀信はよく防いだが, 前の城主の子に攻められたというのもあり, 岐阜城は水の蓄えも少なく籠城向きではなかったため, 敗北
(関ヶ原の前哨戦は九鬼親子, 富田信高, 岐阜城, ・・・)
翌慶長六年岐阜城は廃城となり, 天守, 櫓などは加納城に移された


城の構造

標高336m 比高308mの金華山の頂上にある
関ヶ原の後, 廃城となり, 金華山には何もなかったが, 明治四三年模擬天守が完成
昭和に火災で焼失したため再建


近年頂上までのロープーウェイが作られたが, 金華山ドライブウェイや七曲がり道(家族向け), 百道(健脚向け)の登山道もあり,頂上にはリス村もある
しかし,全く関係ないところに櫓を造ったり, いかにもな塀を作ったりと, 城の遺構はどんどん消されていく方向にあるのでは・・・・
城内の展示物は絨毯の上の椅子に座る信長や, ちがう濃姫の絵など珍しい物が結構ある
麓の歴史博物館はメジャーな物が主
信長公居館  千畳敷
ちなみに信長土産は歴史博物館にのみあり, 岐阜駅や山頂には全く売られていない
山頂も博物館も4時〜5時で閉まるので, 徒歩で登る場合には時間に注意!!!


  
JR岐阜駅の金色信長像 奥に見える山が金華山


  
百曲道 健脚コース 七曲道 普通コース


 
下 麓の金華山公園から岐阜城を見る






標高 336m
比高 308m
住所 岐阜県岐阜市天守閣18
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最寄り駅 名鉄JR岐阜駅からバス歴史博物館前下車




    
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