織田信澄 (歴史上の)

信長の弟, 織田勘十郎信行(信勝) の子. 幼名坊丸.
最初, 信長に遠慮してか, 津田姓を名乗る.(津田は織田家の原点)

信行の正妻と坊丸は, 信行謀殺後殺されず, 信長の乳兄弟である池田恒興に預けられた.
父信行よりも叔父信長に似てとても優秀で, 一門衆 一の出世格. 『多聞院日記』によると, 「一段逸物也(いちだんのいつぶつなり)」.
明智光秀の娘と婚姻を結び, 高島大溝城主, 大坂城代をも務める.

戦では遊撃隊で, 伊賀攻めでは信長の本隊に加えられ(前線にいない=重要職), 有岡城受け渡し役も果たした.
蘭奢待(らんじゃたい)切り取りの時の, 正倉院開封役も信澄.

一時期, 藤堂高虎が信澄の元にいたこともあるが, 何故か高虎は見切り,高虎13(11?)の主替えのうちの一人でしかなく, その後すぐにもとを去った

元浅井家家臣, 佐和山城主で, 浅井を裏切り命を助けられていた, 磯野員昌(かずまさ)の養子に入る. 信長の, 嫡男が居ない事によるお家乗っ取り攻撃である.
たまりかねた磯野員昌が出奔後は,旧領を受け継ぎ,近江高島の地に大溝城を築城した
しかし本能寺の変の時, 光秀と血縁であったために, 疑心暗鬼となった信長の三男神戸信孝, 丹羽長秀 に謀られ, 大阪城内で謀殺された


↓信澄最後の図(arranged by 信澄)