会津若松城(鶴が城)



初めてこの城を築いたのは,葦名直盛である.
その頃は黒川城といった
天正十七年(一五八九)に伊達政宗が葦名氏より摺上原の戦いで勝利した結果,蘆名氏を滅ぼした
この城を攻め取ったが, あまりに粗末な城だったようで, 家臣達が「このように小さく粗末な城では外聞も悪いから普請するように」と進言すると,
「おれは好機が到来したならば関東に押し出ていくつもりだから,こんな粗末な城を普請するつもりなど毛頭無い, それより軍律と軍費の捻出こそ当座の急務だ」と正宗が言ったとか
小田原討伐の後,秀吉により会津は没収, 伊達政宗は岩手県岩出山城(岩出沢城)58万石に減らされた

その後, 会津百万石は蒲生氏郷に与えられる
氏郷は百万石にふさわしい城にすべく, 会津若松城の縄張りを行い, 黒川と呼ばれたこの町を若松と改め, 城を鶴が城と命名した
氏郷死後, 嫡子の秀行は幼少なため会津を守るには不適だとして, 慶長三年,には上杉景勝が入る.
この時, 直江兼続は若松城の西方に神指城を築城し始める

が,関ヶ原の後, 上杉は米沢に移封にされ, 蒲生秀行が六〇万石で再び入城する
その後,蒲生忠郷は痘瘡(天然痘)で死亡し,蒲生家は断絶, 加藤嘉明が入城する

慶長二十年(一六四三)加藤明成は徳川に領地を返上,会津若松城には家光の異母弟,保科正之が入城した
この保科氏は三代正容の時,幕府の名により,松平姓に改姓するが, 会津藩主として代々続き, 明治を迎える

会津藩は最後まで幕府軍として新政府軍に抵抗し,戊辰戦争の時には,最新式の四斤(ポンド)砲でぼろぼろになったが,なお燃えず崩れず,鶴が城の頑丈さが示された



近くには,会津松平家代々の墓,白虎隊自刃の地の飯森山,会津武家屋敷(幕末の会津藩の家老西郷頼母の屋敷だった),
日新館(会津武士道をたたき込んだという会津藩の藩校),国指定名勝御薬園,歴代会津松平藩主の墓など, 観光地には欠かさない
会津若松駅からも観光地を回るバス(はいからさんetc)がたくさん出ていて, 移動も快適である

会津若松城周辺観光サイト


城の構造

蒲生時代には7層であったが,会津地方の大地震で崩れ,加藤時代には5層になった.
現在の復元天守は, 明治の古写真を元に復元された物で, 加藤時代のものと思われる.
今も堀,石垣,土塁などが残る









左上
右上
左下
右下 武者走り



南走り長屋    天守台より
廊下橋    二の丸より本丸を見る


左上

歴代会津藩主松平家の墓
容保の墓もある
右上 会津武家屋敷
     幕末の会津藩の家老西郷頼母の屋敷だった
この息子が黒沢映画の柔道家姿三四郎のモデル?
左下
右下 近藤勇の墓

新撰組近藤勇は板橋で処刑されたが,
逃げ延びる土方が,途中でこの地に
遺髪を埋めたという







上 御薬園
    歴代藩主が薬草を栽培した庭園
下 白虎隊記念館
旧幕府軍に忠誠を誓う二十人余の少年
達が,城下からの火を鶴が城落城と誤認しここ飯盛山で
自刃した


標高
比高
場所 福島県会津若松城追手町
最寄り駅 JR磐越西線会津若松駅からバスなど



    
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