備中高松城


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京に入り,信濃,北陸,中国,四国と進出し,天下を統一しようとする織田信長と,九州まで進出し, 西国の覇者となった毛利との全面対決は避けられない状態であった
本願寺に得意の水軍を使って食糧補給するも, 鉄甲船に撃破され,本願寺も降伏
長篠で撃破した後,武田勝頼を甲府に追い込んで,武田家を滅亡させ,上杉謙信も病死
誰の目にも信長の天下は目前であった
中国地方の山陽側の総大将は羽柴秀吉,山陰側は明智光秀
播磨の三木城,因幡の鳥取城を制した後,岡山城宇喜多秀家の寝返りにあい, 備前備中の国境が前線となった
毛利氏は,備中七城(宮路山,冠山,高松,加茂,日幡,庭瀬,松島)を築き,天正九年,小早川隆景は七城の城主を三原城に招き,ねぎらいの馳走の後,太刀を一振りずつ与え,忠誠を誓わせた
天正十年五月,庭瀬を除く,五城を落とし,秀吉が三万の軍勢で取り囲んだ



四面深い田に囲まれた要害であり,清水宗治ら五千がよく防いだため,高松城はなかなか落ちなかった
しかも吉川元春らが応援に向かっており,毛利全軍の救援も予想された

そんな中,黒田官兵衛水攻めによる攻城を進言
蛙ヶ鼻から約2.7kmの堤防を築き,足守川の水を引き入れた
水攻めによる戦法が実際に使われたのは世界で5カ所
そのなかで成功したのは備中高松城のみである

この秀吉の水攻めにより,急遽形勢が逆転,毛利は手を出せず,兵糧もつきかけていた
そんななか,秀吉は陣中に迷い込む,明智より毛利への使者を捕獲
これにより本能寺で織田信長が討たれたことを知ったが,秀吉は毛利に知られないように,城主宗治の自刃と引き替えに和睦することを提案
安国寺恵瓊 (元就が滅ぼした安芸武田氏の武田信重の子? 毛利家の外交僧)が交渉に当たり, 和議が成立
天正十年六月四日,清水宗治は湖上で切腹
秀吉はそれを見届けると,すぐにとって引き返し,光秀を討って天下への足がかりを進めていった
後に, 信長の死が判明したときにも安国寺恵瓊が和議を存続させ,毛利輝元は秀吉閣下の五大老にまで上り詰めた


里山を歩こう 吉備路散策



城の構造



本丸 首塚や,辞世の句があるあたり
二の丸 資料館より道路側
 本丸とは小橋でつながっていたという
三の丸  公園の駅側の駐車場
 自刃の地やごうやぶ(宗治の二人の家来が自刃後に,
差し違えてお伴した場所)がある
胴塚  船上での切腹の跡,家臣が城に戻り埋めた地
 本丸よりもさらに西へ50m
   
龍王山 現在の最上稲荷
最初秀吉はここに着陣し,
その後石井山に変えた



舟橋
城と城下を結ぶみち
 周辺は沼地であり,敵に容易に進入できないよう,船の間に
板を渡した程度だったという
備中高松城跡


備中高松城跡公園と宗治蓮
高松城址の整備の課程で、城址の周辺に水壕を掘ったところ、自然にハスが生えてきたという
 宗治が見たかどうかは知らないが,四百年を超えて開花したかもしれない 宗治蓮と呼ばれ,親しまれている


清水宗治首塚 清水宗治享年四六歳  辞世の句
  「浮き世をば 今こそ渡れ 武士の
                         名を高松の 苔に残して」



標高
比高
場所 岡山県岡山市北区高松
最寄り駅 JR吉備線備中高松駅