広島城 毛利家



毛利輝元が毛利家代々の吉田郡山城では山間のため不利と判断し,
また,大坂城,安土城などを見, 吉田郡山では古いと判断
天正十七年(一五八九)に太田川河口の三角州であったこの地に近世城郭を築城した
しかし,毛利輝元は関ヶ原の総大将に祭り上げられ,周防,長門に移封されたため,福島正則のものとなった
しかし,幕府の許可無く城の修理を行ったことを理由に元和五年(一六一九)に没収,代わりに浅野長晟が入り,明治まで浅野氏が十二代続いた


毛利輝元について
大友宗麟との和議の後,尼子討伐中に国人の饗応をうけ,毒殺された毛利隆元の長男
幼名幸鶴丸
永禄六年(一五六三年)に父・隆元が急死したため、わずか十一歳で家督を継ぐ
足利義輝より輝の字を賜り,元服して輝元と名乗った
永禄八年,月山富田にて初陣
相続当時は元就が後見についていたが,元亀二年(一五七一)に元就が死去すると, 叔父の吉川元春,小早川隆景と協力し,中国地方の把握に努め, 織田信長に団結して対抗するようになる
が急死ししかし,天正十年(一五八二)に本能寺で倒れると, 水攻め中の備中高松城で,清水宗治の切腹と引き替えに,豊臣秀吉と和議を結んだ
ここで秀吉は大返しをし, 明智光秀を討って天下人への道を歩み始めるが, 輝元とは友好関係を存続
秀吉下の五大老の一人となった
しかし, 秀吉死後, 五大老の一人であった徳川家康が台頭
他の五大老を無視した横暴な振る舞いが増え, 関ヶ原が勃発
秀吉の寵愛を受け, 政務を担当していた石田三成に西軍の総大将に祭り上げられ,敗北
吉川元春の三男にて, 吉川家の当主となった吉川広家が, 毛利輝元の前に布陣し,出陣を阻んだため, 毛利家は実質上合戦に参加することなく,
また, 小早川隆景らの知恵にて, 安国寺恵瓊 (毛利家の外交僧)を身代わりとしたため, 毛利輝元は助命され, 周防,長門に移封された


広島城は別名鯉城とよばれ,広島カープはここからとったとか



城の構造
五層五階の望楼天守に小天守二基がつらなった複合連結式
聚楽第をモデルにしたとされる
太平洋戦争まで天守が現存していたが,原爆投下で崩壊した
本丸に復興天守,二の丸跡,木造復元された表御門,櫓がある


広島市未来都市創造財団 広島城のホームページへ








標高  
比高  
場所 広島県広島市中区基町
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アクセス 広島駅
    or
路面電車orバス紙屋町駅下車





    
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