高槻城



室町時代は三好長慶芥川山城に入り、高槻城はその支城という位置付けだった
三好氏の家臣入江氏の居城であったが三好一族が織田信長に滅ぼされた際に自害したようである
その後は和田惟政を経て高山右近が城主となった
和田惟政の頃より、標高も高く不便な芥川山城より、高槻城を本城にうつっていった
和田惟政、高山右近とも切支丹の良き理解者であり、城下に宣教師を迎え、教会も建てた
関ヶ原以降は、徳川の所領となり、青山忠成から内藤信正そして土岐定義が城主となると、高槻城は完全な近代城郭として改修された
ついで松平家信、岡部宣勝、松平康信と城主が代わり、慶安二年(一六四九)に永井直清が城主となる
その後永井氏は13代にわたって高槻城主となり幕末に至る

明治4年(一八七一)、廃藩置県により廃城。東海道線が敷設される際、石垣や木材などがその資材にあてられた
明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯した
城の構造

和田、高山氏の代に大規模に拡張し、土岐氏、岡部氏の頃には三重の堀と三重の天守をもち東西六三〇m×南北五八〇mという大きさであった


現代は都市開発のため、当時の遺構はほとんど残っていない
城域の一部が城跡公園として整備され、復元石垣、高山右近像が建てられている
本丸跡にあたる大阪府立槻の木高校内には高槻城跡の石碑が建てられている

しろあと歴史館では、高槻城や歴史の再現、刀や鎧などが展示されている






三好長慶

阿波三好氏生まれ 足利幕府摂津国守護
細川氏を追い落とし、最大で山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨と勢力を広げ、強大化を恐れ、討伐しようとした十三代将軍足利義輝さえも逆に殺害するなど織田豊臣より前に事実上天下に最も近づいたが、弟の十河一存が急死し、自身も病となり、心身に異常を来し始める
弟の安宅冬康を忙殺したり、細川と畠山から勢力の奪回を図られるなか自身は病死
三好氏は、跡を継いだ三好三人衆(三好長逸三好政康岩成友通)では衰退を抑えられず、三好義継と、もと家臣であった松永久秀が織田側に離反、上洛してきた織田に滅ぼされた
高山右近

中川清秀と従兄弟
和田惟政の子惟長に謀殺されかかるも助かり、一時、荒木村重のもとに入る
その後、織田に反旗を翻した荒木村重を説得したり、山崎の戦いで戦功をを上げたが、秀吉天下となってからのバテレン禁止令に従わず前田利家預かりの身となった
その後の徳川家康の切支丹追放令を受け、マニラに渡航するも病のため死去した
茶の湯にも秀で、利休七哲の一人


高槻城の石垣の中
高槻は土地が低く、水害で石垣がずり落ちないよう、木で格子状の枠を作り、その上に石垣をくんでいるらしいです
高槻城址公園
野見神社と永井神社



標高  
比高  
場所 大阪府高槻市城内町
最寄り駅 JR高槻駅



    
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