多聞山城




諸説有るが、永禄三年頃に信貴山城主松永久秀が東大寺大仏殿の北にある眉間寺山(佐保山)に多聞山城を築いた。

三好長慶の家臣として頭角を現した松永久秀は、長慶死後は織田信長と組んで三好一族を滅ぼした
奈良の有力な勢力である興福寺も信長の力を得て退け、大和国の統治を信長に認められ、多聞山城を築いた
書物に、白壁の櫓が多数と記されており、立派な城であったことがうかがえる
しかし、興福寺の筒井順慶も信長に遅れて降伏


何度も主君を変えることを異とも思わぬ久秀に信用できなかったのか、大和国の統治は松永久秀から筒井順慶に渡される
その後、武田信玄石山本願寺を中心とした信長包囲網に一次的に参加するなど信長に対し再三謀反
ついには織田信長に降伏を許されず, 信貴山城にて自害した
多聞山城自体は天正元年に大和国守護として塙直政に引き渡されるが石山本願寺攻めの最中に討ち死にするとともに廃城となる

一時的に南都奉行所の与力、同心屋敷が建ったり、幕末に練兵所として使われるもほぼほぼそのままの状態であった
昭和二三年の若草中学校建設の際に大部分が破壊された


松永久秀について

出自は諸説あり定かではないが三好長慶の家臣として頭角を現した
松永久秀は信長をして、「常人には出来ない3つの悪事東大寺大仏殿焼き討ち、将軍殺し、主君殺し)をした」と言われるほどの戦国の梟雄と言われている
三好の武将として、三好三人衆と組んで第十三代将軍足利義輝を謀殺するなど重要な戦功をあげる しかし、弟の十河一存、嫡男の三好義興が死後(松永久秀による毒殺説あり)、三好長慶は戦意をなくし、ほどなく病没
その後は早くも三好家を見限り、逆に織田信長と組んで三好一族を滅ぼした
奈良の有力な勢力である興福寺も信長の力を得て退け、大和国の統治を信長に認められ、多聞山城を築いた
何度も主君を変えることを異とも思わぬ久秀に信用できなかったのか、大和国の統治は松永久秀から筒井順慶に渡される その後、武田信玄石山本願寺を中心とした信長包囲網に一次的に参加するも再度降伏
この時には帰順を許されたが、再度謀反
ついに織田信長に降伏を許されず, 信貴山城にて最後は自分の首と名茶器九十九茄子を鎖でつなぎ爆死したという


城の構造

主要部は現在の若草中学校 西部は仁正皇后、聖武天皇陵
その当時は山の地形に塀と堀を配置しただけの簡素な構造の城が多かったが、多聞山城には多聞櫓と言われる物見櫓を造った
これが、時代が下るに従い、巨大化、装飾的になり、天守閣と進化したと言われている
伊丹城に次いで、「天守」というべき建造物を作った日本で2番目の城とも
宣教師ルイスアルメイダは「場内に多数の塔、塁堡、多くの階を重ねて倉庫を付属した家が建ち並び、城壁と塁堡は白壁塗りで、御殿の内部は彫刻、壁画、金地で飾られた豪華なものであった」 と記録している

一時的に南都奉行所の与力、同心屋敷が建ったり、幕末に練兵所として使われるもほぼほぼそのままの状態であった
昭和二三年の若草中学校建設の際に大部分が破壊された
現在、城跡は市立若草中学校の敷地となっている
今では遺構らしきものは何も残っていない。 構内には堀切等も残っているようであるが、無断で立ち入るわけにも行かず確認できなかった。

安堵町窪田にある国指定史跡中氏屋敷がある
多聞山城と直接関係はないが、筒井氏の家臣の武家の屋敷でありながら二重の堀と多数の棟、茶室や大きな客室などがあり、かなりの身分の武家であったことがうかがえる(見学は要予約、中氏の子孫の方が案内してくれます)
隣りの旧豆福堂石田邸ギャラリー(現在は空き屋)は、多聞城廃城の折りに筒井順慶の一族石田氏に資材を譲られ作られたとされる門が残っている。




城の構造




   
東大寺旧境内
若草中学校の入り口



       
筒井家家臣中氏住宅 公開中ですが、現在も子孫の方が住まれています 訪問の際は事前に問い合わせを
多聞城の門の資材を活用した?といわれる門 隣の中氏に比べてかなりクオリティが・・・




標高 115m
比高 30m
場所 奈良県奈良市多門町google mapで見る
最寄り駅 JR奈良駅、近鉄奈良駅



中家住宅 奈良県生駒郡安堵町窪田133
多聞城城門の移築?先 奈良県生駒郡安堵町窪田138

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