信貴山城


古くは楠木正成が築いたという説もあり、朝護孫子寺に楠木正成が奉納したとされる花押と菊水の旌旗旌旗奉納されている
本格的な城郭を築いたのが木沢長政である
しかし、木沢長政は三好、細川との戦いで天文11年(1542年)3月太平寺の戦いで敗死する
その後17年間城の記録がない空白があり、永禄二年(一五五九)八月に松永久秀が信貴山城を大規模に改修した
その後、大和を一挙に制圧した久秀は多聞山城も築城し、約20kmほど離れた両城を、支城を築いて連携しつつ活用した
足利義昭を奉じて織田信長が上洛すると、三好を裏切り信長に臣従
織田の天下統一に大きな役割を果たした
しかし、武田信玄石山本願寺を中心とした信長包囲網が結成され、信長が不利になると信長に対し再三謀反
ついには織田信長に降伏を許されず, 信貴山城にて自害した
信貴山城は松永久秀爆死とともに廃城となる


城の構造

信貴山の山頂には空鉢堂が建つ
標高四三七mの雄嶽の山頂を中心に南北700m、東西550mと奈良県では最大規模
御嶽には日本で伊丹城多門山城、について日本で3番目の天守を作った城とされている
また天守は4層であったといわれている


 
朝護孫子寺は、聖徳太子が開いたお寺
本尊は毘沙門天
毘沙門天が現われたのが寅の年、寅の月、寅の日、寅の時刻だったというゆかりから、縁起物も「寅」がシンボル
「世界一福寅」の巨大な張り子の寅が有名




                         
信貴山参道の頂上に、信貴山城への入り口があります
すごくわかりにくいっ!!
かなり狭くて暗い道を上らなければなりません
雄嶽(空鉢堂)
この小高い部分が信貴山城の天守です
雄嶽(空鉢堂)
ここに四層の天守があったのでしょう
天守と松永屋敷曲輪とは、城図等では近そうに見えますが、いったん50m程度下ってからまた登らなければならないため、結構大変です
松永屋敷曲輪
かなり広い ここに松永屋敷があったのか
松永屋敷跡に控える木工武者
これからもずっと信貴山城を守ってください
松永屋敷曲輪と隣の立入殿屋敷曲輪
写真ではわかりにくいかも知れませんが、かなりの段差があります











標高 433m
比高 m
場所 平群町信貴山2280-1
最寄り駅 近鉄勢野北口